第6回 YMFSスポーツ・チャレンジャーズ・ミーティング
スポーツ討論会
日時 | 3月16日(土) 19:30〜21:00 |
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テーマ | 「練習」とは何か |
パネリスト・司会 |
川谷 茂樹 北海学園大学法学部教授 専攻 スポーツ哲学 |
討論概要 | 練習をしなくても試合に勝てるのであればおそらく誰も練習しないだろうが、実際にはそのような競技者はいないだろう。というより、一般的に試合時間は練習時間に比べるとごく短い。つまり競技者は、競技者として過ごす時間の大半を(試合ではなく)練習に費やしている。考えようによっては、食事や睡眠といった生存に不可欠な活動すらも、こと競技者にとっては広い意味での「練習」とみなすこともできる。 それでは、どのような練習が「よい練習」(あるいは「わるい練習」)なのか。練習の「よしあし」を決める要因は何か。──こうした問いは、日常的に練習に取り組んでいる競技者(ないし指導者)にとってはとりわけ重要な問いであろう。そしてこうした問いを考察するためには、「そもそも練習とは何か」という(哲学的な)問いを避けることはできない。スポーツ学においては、練習の方法論(それぞれの競技によって異なることが多い)が論じられることはあるが、こうした練習の原理論、換言すると「練習の哲学的意義」はあまり検討された形跡がない。今回は「練習」を可能なかぎり原理的・哲学的に考察し、最後に練習という「問題」を提起したいと思う。 |
テーマ:スポーツは本当に必要か
川谷今日は「『練習』とは何か」をテーマに進めていきたいと思いますが、まず私から趣旨の説明をさせていただいて、その後、グループ討論を挟み、最後にまた私のほうでまとめさせていただくという流れで90分お付き合いいただきます。
まず自己紹介をさせていただきます。パンフレットの中では、専攻はスポーツ哲学をベースに……とありますが、私がスポーツ哲学という学問領域の存在を知ったのは大学院生のときでした。それまで何をやっていたかと言いますと、基本的に、卒論も修論もカントという18世紀のドイツの哲学者で書いています。現在は北海学園大学で主に一般教育科目の倫理学を担当していますが、スポーツ倫理学というものを非体育系の学生が学べるのは、私が非常勤をしている大学を除くと日本で唯一なんじゃないかというふうに思っております。
さて、そのスポーツ哲学、スポーツ倫理学ですけれども、皆さんおそらくこうした分野をご存じないと思いますので、簡単に紹介させていただきましょう。そもそも、ずっと哲学畑で育ってきた私からすると、スポーツと、それから哲学という言葉がくっついていること自体、非常に奇妙で、気持ちの悪い文字の並びだったわけです。もっと言うと、私のような文学部の哲学畑で育ってきた人間は、そういう学問領域があるということすら知らなかった。スポーツ哲学という学問は欧米で始まって、1973年に学会が設立されたそうですが、日本でもそれから2〜3年後に日本体育・スポーツ哲学会という学会が設立されまして、私も今、そこで仕事をさせてもらっています。
したがって、40年ほどの歴史がある学問なのですが、にもかかわらず、私のような哲学プロパーの人間がその存在すら知らない。なぜかというと、日本でスポーツ哲学やスポーツ倫理学を研究されてきたのは体育の先生だったからなんです。体育というのはフィジカル・エデュケーションですから教育学部で、我々は文学部ですから縦割りで交流もない。このように、我々哲学研究者の知らないところで30年以上やられていたと。ちなみに欧米はどうかと申しますと、あちらも体育の先生が中心ではあるのですが、3〜4割ほどは哲学の人間がいる。ところが日本では150名ほどの学会メンバーのうち、哲学プロパーは私を含めて2〜3人、あとは全員体育の先生です。
さて本題です。演題の「練習」ですが、私自身、今日ここで結論を示すようなことはできません。逆に皆さんに討論していただくことで、共同研究というか、お知恵を拝借したいという思いがあります。私自身は文献を読んで論文を書くという研究スタイルなんですが、それは本当に孤独な作業。こうやって実際に競技をされている方や、ほかの分野の研究をされている方とお話しする機会がありません。そういう方々のご意見を伺って、自分の考え、これからの材料を探すことができればありがたいというふうに思っています。
では始めていきましょう。「良い練習」、あるいは「悪い練習」、そういった言葉があります。練習の良し悪しということでしょう。じつはこれ、人によっては倫理的な問題なのです。なぜかというと、倫理というのは人の行為の良し悪しです。良い、悪いということを簡単に言うと倫理です。練習というのも人間の行為ですから、何が「良い練習」、何が「悪い練習」ということを考えるのは、広い意味で倫理的な問題だと私は考えています。
練習の原理論。つまり、練習の哲学的意義ということについては、これまであまり論じられた形跡がありません。これは日本に限ったことでなく、欧米のスポーツ哲学専門雑誌をパラパラとめくってみても、きちんと論じられた形跡が見当たりません。ですが、今回は、チャレンジという意味を込めて練習というものを定義したいと思います。定義を考えるとき、常套手段としては辞書を引くというのがありまして、大辞苑には次のように書いてありました。「技能・芸事などが上達するように同じことを繰り返し習う」。はい、練習とはこういうことですね、で終わってしまいます。辞書というものは、誰でも知っていることしか書いていませんから、哲学ではせいぜいとっかかりにしかなりません。
では、どこから考え始めたらいいのか。これについては特に決まりはありません。決まりはないんですけれども、常套手段があります。練習という言葉の類義語、あるいは対義語というのを考えるという方法です。練習の類義語、どなたでも結構ですが、思いつく人はいますか?
「学習」はどうでしょう?
川谷「学習」。いいですね。ほかに誰か。
「演習」。
川谷なるほど。軍事演習とかね。ほかに何かありませんか?
「鍛錬」。
川谷 そうですね。こういうふうにいろいろあるわけです。では、対義語はどうですか? 練習の対義語です。
「怠慢」。
川谷「怠慢」? それはおもしろいな。
「じっせん」。
川谷「実戦」? 「実践」? どちらもありなんじゃないですか?
「本番」はどうでしょう?
川谷 はい、ありがとうございました。いろいろ出ますね。でもここで吟味していると時間がなくなってしまいますので次にいきます。もともとはアリストテレスという人が始めたものですが、「分類」という方法もあります。「練習」を「分類」してみる。これにはいろいろな分類の仕方がありますが、たとえばさっき出た「実戦」との距離。プロ野球であれば、自主トレから始まって、キャンプ、オープン戦、どんどん実戦との距離が近くなっていくわけです。あるいは、人数で分類する。個人練習、グループ練習、チーム練習、練習試合とか、そういう分類もあります。あるいは、技術。どんな技術の練習をするのかという分類もあるでしょう。野球で言えば、打撃練習、守備練習、投球練習、走塁練習、そういう分類ですね。また、今度は目的を考えるという手もあります。何のために練習をするのか。これは非常に大事な観点だと思います。練習の目的とは何か? 誰か、ありませんか?
「勝利」。
川谷「勝利」。そうですよね。何における勝利?
「試合」。
川谷そうですね、これが一番先に出てきますよね。ありがとうございます。ということは、もし練習の目的が試合における勝利だとすれば、試合における勝利を導き出すことができなかった練習というのは、少なくとも「良い練習」ということにはならないかもしれない。つまり、試合での勝利に結びつくかどうかというところで、「良い練習」と「悪い練習」という区別や基準が導き出される関係なのかもしれません。定義を導き出すためのとっかかりとして、とりあえず、類義語や対義語を考えてみる、分類してみる、あるいは目的を考えてみる、こういう手があるということです。