スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

INTERVIEW
SHOTA NAKAJIMA × TOMOKO HAGIWARA

【対談】中島正太×萩原智子

アナリストとしてのラグビー人生

選手が自信を持ってピッチに立てるようサポートをすること

萩原今現在は男子7人制ラグビー日本代表のアナリストとして、新しいことにチャレンジをされていますが、改めてこの四年間を振り返って、いかがですか?

中島自分の発想で何かを進めることはできませんでしたが、コーチ陣からもらうリクエストを淡々とこなす中で、成長してゆけました。次の四年は、今度は自分から発信できる環境に身を置きたい、だから七人制ラグビーの方に移れればいいなと考えたんです。スタッフは少ないし、やらなきゃいけないことは多い、だからこそ自分にもやれることは多いだろうし、グラウンドに立つ機会も増えるだろうと。大変だなと思う瞬間はありますが、やりがいのある環境でもあります。

萩原今は実際にグラウンドの上に立って、選手に指導することもあると伺いました。

中島コーチではないのですが、スタッフの数が限られていますので、トレーニングを回したり、ヘッドコーチのサポートをしたり。相手チームの選手はこういう風にプレーしてくるぞ、というようなことを、後ろから選手に伝えたりはしています。

萩原15人制の時とはまた違う立場ですね

中島15人制の時に、次はこんな仕事をしてみたいと思ったことをやれているので、非常に充実した毎日を過ごしています。コーチングの大変さ、選手との関わり方、いろいろ学ばせていただいています。

萩原少し抽象的になりますが、中島さんが考えるアナリストとは?

中島まだ多くを語れる立場にはないのですが、たとえ世界一との対戦であろうと、試合に挑む選手が相手に臆することなくグラウンドの上に立っていられる、それが僕の仕事なんじゃないでしょうか。試合が始まる前のところまでしか、僕は選手たちの手助けはできない。ですので、選手が自信を持ってピッチに立てるようサポートをすること、それが自分の仕事なのかな。

萩原2019年のワールドカップのこと、考えていらっしゃいますか?

中島いえ、今の時点では全く考えていないです。一年一年勝負してこそ、次の年が迎えられると思っているので、2019年のことを考えて今を疎かにしてしまいたくはないですね。もちろん、2019年までやってほしい、と言われるのは嬉しいですが、今はその感情を抑え込んで、やるべきことをやるしかないです。

萩原最後に、話は少しずれますが、ラグビーファンのご両親の影響でご自身もラグビーをお始めになったと伺ったのですが、ご両親は中島さんがアナリストとしてご活躍してらっしゃること、喜んでいらっしゃるんじゃないですか?

中島多分、そうですね、笑。両親は、僕の現役時代はいつも試合を見に来てくれていました。大学を卒業して、僕がプレーをやめてしまった後、彼らも楽しみを無くしてしまったんじゃないでしょうか。でもそれが今回、僕が代表チームで働くようになってからは、秩父宮ラグビー場に招待したこともあったり、ワールドカップを見てくれたりもしました。両親が勧めてくれたラグビーで今こうしてご飯を食べられている、それを彼らも喜んでくれていると思っています。この道に導いてくれた両親には本当に感謝しています。

萩原私、実は中学校時代に一緒に水泳をやっていた有賀くん(有賀剛、現サントリーサンゴリアス所属)の影響で、かなり昔からラグビーファンなんです。ワールドカップ期間中は、本当に感動しながら試合を見させていただいたんですが、大会が終わってみると、あの日本チームの大活躍の裏には一体どういうことがあったのか、すごく興味がありました。今日はたくさんの面白いお話、本当にありがとうございました。

中島こちらこそ、ありがとうございました。これから、もっともっと日本のラグビーが独自の文化としてこの国に根付いてゆくよう、少しでも貢献できればと思っています。

<了>

写真=近藤 篤 Photograph by Atsushi Kondo

インタビュアー

萩原智子

TOMOKO HAGIWARA

(はぎわらともこ、1980年4月13日)中学3年生時に、海外遠征カナダ選手権200m背泳ぎで、当時、日本歴代2位となる日本中学新記録樹立。高校インターハイでは、200m背泳ぎで、3連覇達成。同年アジア競技大会では、個人、リレー種目で、3個の金メダルを獲得。2000年シドニー五輪、200m背泳ぎ4位、200m個人メドレー8位入賞。2002年日本選手権では、100m、200m自由形、200m背泳ぎ、200m個人メドレーで史上初の4冠達成。「ハギトモ」の愛称で親しまれ、2004年現役引退。5年の歳月を経て、2009年現役復帰宣言。復帰レースとなった新潟国民体育大会では大会新記録で優勝。翌年2010年には、30歳にして日本代表に返り咲いた。同年、ワールドカップ東京大会で50m自由形、100m個人メドレーで、短水路日本新記録を樹立。順調な仕上がりを見せていた矢先、五輪前年である2011年4月に、子宮内膜症・卵巣のう腫と診断され、手術。手術後は精力的にリハビリに励み、レース復帰。2012年2月のJAPAN OPENでは、50m自由形で短水路日本記録を樹立。4月に行われたロンドン五輪代表選考会ではレベルが上がってきた女子自由形で、堂々と決勝に残り、意地を見せた。2013年6月、日本水泳連盟理事に就任。現在はテレビ出演や水泳教室、講演活動など多岐に渡る活動を行っている。また、自ら現場に行って取材を行い、ライターとしても活躍中である。



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