スポーツチャレンジ賞




思いがけない突然の電話
門田自身の記憶によれば、それは2004年4月のある週末だった。
「不思議ですよね。今になって考えても、なぜあの日あの電話が自分のところにかかってきたのかわからないんですよ」
でも、その電話はかかってきた。彼は、当時担当していた広島市内の高校のバスケットボール部の試合に同行していた。新人戦決勝、目の前では熱戦が繰り広げられていた。そのとき、ポケットの中で携帯電話がなり始める。待ち受け画面には見たことのない数字が並んでいた。
「もしもし、モンデンさんのお電話でしょうか? 私はJPCの医事委員会のスヤマというものですが…、あなたは障がい者スポーツに少し関わっておられるようだけれども、今年の秋に1ヶ月ほど仕事を休むことはできますか?」
いたずら電話ではなさそうだったが、なんだか話の要領が掴めなかった。
「すみません、いま新人戦の決勝中なので、あとでかけ直してもよろしいでしょうか?」
電話の向こうの、たぶんとても重要な人物に丁重に詫び、門田は意識を目の前の決勝戦に戻した。
試合後、門田は電話をかけ直した。電話の主は、日本障がい者スポーツ協会医事委員会会長の陶山哲夫教授だった。
実は、アテネのパラリンピックからJPC(日本障がい者スポーツ協会)はアスレチックトレーナーを帯同させようと思っている。ついては、あなたにその役目を果たしてもらえる可能性はあるだろうか? それが陶山教授の用件だった。
条件は3つ。まず、理学療法士であるということ。次に、日本体育協会の公認アスレチックトレーナーであること。最後に、障がい者スポーツのサポートを実践していること。そのいずれも門田はクリアしていた。
「クジ引きの結果なのか、名前の不思議さだったのか、はわかりませんが、何人か候補がいる中で、まず私のところに電話がかかってきたようです」
こうして、2004年9月17日から28日まで行われたアテネパラリンピックに、門田はJPC初の本部帯同アスレチックトレーナーとして参加することとなる。
瞬く間に過ぎたアテネでの2週間
選手村への入村式が終わると、門田は集まった各団体のリーダーに自己紹介をし、自分がどういうサービスを提供できるかを説明した。知り合いは、障がい者テニス協会の理事のみ。いったい何をしにきたんだ、そんな目で彼を不機嫌に眺めるコーチもいれば、興味深そうに門田の話に耳を傾けてくれる人もいた。
営業時間は午前9時から午後10時まで、しかしそれ以外の時間でも、自分が必要なら遠慮なく声をかけてもらっていい。はりは打てないですが、それ以外はすべて出来ます。
大会期間中、門田は本部内に設けられたマッサージルームで寝泊まりし、結果的にほぼ24時間態勢で選手のケアに対応することとなる。
「さすがに明け方はないかなって思っていましたけど、甘かったですね」

午前9時から競技が開始する選手は、午前4時に門田に身体をほぐしてほしいとやってきた。とんでもなく忙しかったが、それは門田の意図したものでもあった。自分のサービスを提供し、それが役に立つことを実感してもらい、自分一人が奮闘する姿を見てもらえれば、次は必ずスタッフを増やそうという話になるはずだ。この世界には自分よりも優れた能力を持つトレーナーがたくさんいる。そういう人々をパラの世界はもっと活用すべきだろう。
「正直言うと、僕はあくまでも代打だと思っていたんです。広島の田舎者が、その先ずっとパラリンピックの世界に関わっていくなんて、想像もしませんよ。ただ、代打で呼ばれた以上、せめてヒットは打ちたいな、と」
アテネでの2週間は瞬く間に過ぎた。門田はその間、選手村でひたすら選手たちの肉体のケアをし続けた。パルテノン神殿もアゴラも見ず、パラリンピックの競技会場すら覗いたことがなかった。
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