スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

門田正久
FOCUS
MASAHISA MONDEN
門田正久の足跡

寄り添い、そして共に歩む

理学療法士という職業

理学療法士。それがどういう職業なのか見当もつかなかったが、叔父は信頼に値する人物であったし、なにか手に職をつけたいとは思っていた。

叔父の勧めを素直に聞き入れ、門田は安佐市民病院へ見学に出かける。そこで彼が見たのは、事故や病気で動かなくなった肉体を持つ患者に寄り添い、共に治してゆこうとする人たちの姿だった。この仕事は自分に向いているかもしれない。17歳の少年は、漠然とだがそう感じた。

ボートで鍛えた体力には自信がある、誰かが元気になってゆくことの手助けは楽しそうだし、おまけに給料までもらえるんじゃけん。

筆記試験の出来には全く自信がなかったが、面接では自分の熱意を懸命に伝えた。門田は入学試験に無事合格し、晴れて国立呉病院付属リハビリテーション学院の1期生となる。

「最初の2年間は相変わらずダメな奴でしたね。バイトとバイクばっかりの生活です。呉市に初めてのコンビニがオープンするところで、その店の立ち上げが楽しかったんです。授業はさぼる、問題は起こす、よく退学させられなかったなって、今でも教務主任の先生には心から感謝しています」

そんな門田が自分の果たすべき役割と真剣に向き合うようになったのは、入学して3年目、実習の授業が始まってからだった。期間は3ヶ月。学生は直接患者と接し、彼、あるいは彼の家族と相談しながら、自分の力で相手の肉体と向き合うことを求められる。

この人をもっと良くしてあげたい。その気持ちが強まれば強まるほど、門田は自身の力不足を痛感した。適当に勉強して、適当に授業に顔を出す、そんな生活では現実を騙しきれないことに気づいた。

100%の熱意と力で

まるでそれまでの彼が偽物に思えるほど、門田は勉強に取り組み始める。高齢者、交通事故、脳血管障害後遺症、脳性小児麻痺、原因も違えば、症状も違う。理学療法士の対応すべき世界の幅は広く、学ぶべきことは毎日山のようにあった。

その頃出会った一人のベテラン理学療法士の言葉は、今でも心の芯にしっかりと刻まれている。

「長いキャリアと経験を持った理学療法士と1年しか経験のない理学療法士、君ならそのどちらに自分の子供を任せるかい?」と、そのベテラン理学療法士は彼に問うた。もちろんキャリアと経験のある…、と門田は答えた。

「そうかな? 私なら、自分のキャリアと経験にあぐらをかいているベテランよりも、100%の熱意と力で患者に接する療法士を選ぶよ」

1984年春、理学療法士としての門田正久の生活は、医療法人社団朋和会西広島リハビリテーション病院でスタートする。彼の勤務先は、当時としては珍しく、チームドクターや管理栄養士の派遣といったサービスも提供していた。

彼はその病院で、日中はリハビリ部門の担当者として院内で患者の治療に携わり、夕方6時以降は高校や実業団の練習場に足を運び、トレーニングのアドバイスをしたり、選手にマッサージを施した。

「ちょうど、スポーツとスポーツ医学の関係が変化し始めた時期でしたね。壊れたら治すスポーツ医学から、壊れないようにするスポーツ医学への」

<次のページへ続く>



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