妻木さんとは、僕が日本代表に入った頃からの付き合い。一言で言えば、彼は誰とも違うタイプのトレーナーだった。勉強熱心で研究家。こっちは、首が痛い、って言っているのに、ずっと足首ばかり揉んでたり。あのさ、そこじゃないんだけど、って次第に半信半疑になってくるんだけど、しばらくすると、あれ治ってる!ってなる。そういうとき妻木さんは、でしょ!って嬉しそうに笑うんだ。あの人、いつも新しいことを学んで、チャレンジしてるんだよね。
その頃の日本代表は、トレーナーは妻木さん一人だけ。だからどうしてもベテラン選手へのケアが中心になってしまう。でも彼は、若手にもポソっと囁いてくれるんだ。今日の昼、時間あるから、ちょっとマッサージにくれば?って。自分ではなんともないんだけど、実際にマッサージを受けると、やっぱりその箇所が張ってたりする。彼、優しいんだよ。代表選手の中には、自分の所属してるチームのドクターやトレーナーには内緒で、妻木さんに診てもらってた選手多いんじゃないかな。
それに妻木さんは、一緒にいるだけで癒される、みたいなところがあるんだね。いわゆる、ゆるキャラ、って言うのかな。きっとFIFAの審判や偉い人たちも、妻木さんにマッサージしてもらってると、癒されるんだよ。うん、ゆるキャラは世界に通用するんだ、笑。
(日本サッカー協会専務理事 原博実)
妻木充法は1952年12月9日、静岡県の清水市(現在は静岡市清水区)で生まれ、高校卒業までの18年間をこの港町で過ごした。
「自分で言うのもなんですが、小学校の頃は真面目な子供でしたね。勉強もそこそこできたし、とにかく本が好きでした」
清水市立第四中学校では、友人に誘われて『ラジオ研究部』に入部する。今ではレトロに響く言葉だが、当時は時代の最先端をゆく部活動だ。昭和39、40年、まだ日本が貧しかった時代、リアカーをひいて日本平まで行き、空き缶を拾って回った。
「それをお金にかえて、真空管アンプの材料とかを買ったりね。そういうのも楽しかった」
高校は市内きっての進学校、静岡県立清水東高等学校に進む。
「身体は健康だったんですよ。工事現場や沖仲仕のバイトしてたくらいですからね。ラジコン買うために、船倉の中でマグロを担いでましたから。でも、体育会系は苦手で。怖いっていうか、苦しいってイメージがありました。苦しいの、嫌じゃないですか」
とは言え、そこは妻木も15歳の若者である。心のどこかにスポーツ選手への憧れはあった。高校入学後、妻木は体操部に入部する。部員数はたった3人、しかも入部後しばらくは、毎日柔軟体操と着地のための筋力トレーニングをやらされた。半年後、妻木はあっけなくドロップアウトする。やっぱり苦しいのは苦手だった。
<次のページへ続く>
大学は日本大学の文理学部心理学科に進んだ。大学進学には乗り気ではなかったが、父は進学を強く勧めた。それならば、どうせ勉強するなら、人の頭や心のことについて学ぶことにした。
大学では催眠研究会に属し、勉強もそこそこやり、暇な時間はたまにバイトをした。当時の妻木充法はどこにでもいるような大学生で、自分の将来についての目標や具体的なビジョンなど皆無だった。
しかし、妻木青年の日常は、大学3年の夏に大きな方向転換を強いられることになる。
「ある日、友人が僕のアパートに遊びにきて、銭湯に出かけたんです。しばらく湯船につかって、じゃあそろそろ出ようよ、と友人に声をかけたつもりが、見ず知らずの他人だったんですよ」
いつの間にか視力が低下していた。大学病院での検査の結果は、円錐角膜。角膜が円錐形に突起するというこの症状は、現在においても未だ原因不明の難病である。放っておけば失明する。それが担当医師の診断だった。
同時期、妻木は清水の父親を病で失ってもいる。
「都合の悪い思い出はあまり覚えていないんですけどね。でもたぶんあの頃は、大変なストレスの中で生きていたと思います」
辛い時期だったが、結果的に、この眼病がきっかけで妻木は鍼灸師を目指すことになり、37年後、ゴッドハンドとまで称されるアスレチックトレーナーとなる。禍福は糾える縄のごとし。人生とは不思議なものだ。
不思議と言えばもうひとつ、この頃に起こったある出来事も、ずいぶんと不思議なものだった。
当時住んでいた下高井戸のアパートは、木造モルタル二階建て、妻木はその一階に部屋を借りていた。風呂もなければ、洗濯機もなく、洗濯物は手で洗う。アパート裏には、洗濯物を干すために張られた1本のロープがかかっていた。ある日曜日の午後、妻木はそのビニール製のロープに洗濯物を一枚一枚干し、最後に水分をたっぷり含んだジーンズをかけた。
「するとね、ロープがパチンって切れて、洗濯物が全部下に落ちちゃったんですよ。それも、隣の部屋の人の洗濯物まで一緒に!」
隣部屋の住人は、妻木とほぼ同年代のOLだった。妻木は彼女の部屋のドアを叩く。トン、トン、トン。あのー、すみません…
「その女性がね、今の女房なんです」
彼女の名前はノブエといった。大丈夫、私がずっと支えていってあげるから。妻木よりも4歳年上で、優しげな顔をしたその女性は、その後彼の人生に訪れたいくつかのアクシデントや挑戦に、常に彼とともに立ち向かい、励まし、背中を押し続けてくれる人となる。
円錐角膜の結果が出た検査からおよそ半年後、妻木は角膜移植の手術を受ける。手術は無事成功に終わった。
<次のページへ続く>
「角膜移植の手術を受ける前に、もし視力を失ったとしても身につけられる職業を選択する、と心に決めていたんです」
大学卒業後、妻木は幾つかの病院で脳波検査助手のアルバイトを続けながら、新宿にあった東洋鍼灸専門学校の夜間コースに通い始める。
入学して1年後、妻木はアルバイトをやめ、新宿にある小守スポーツマッサージ療院に弟子入りした。昼は治療院で内弟子として働き、夜は専門学校へ通うほうが、実際の治療に役立つ技術を一日でも早く身につけられるように思えたからだ。
治療院で働き始めて3年目の1979年、まだ駆け出しのトレーナーだった妻木は、その夏日本で開催されるサッカーのワールドユース大会に参加する日本代表のトレーナーの仕事を任せられる。思いがけない大役だった。
「治療院は、野球、芸能界、様々な分野で活躍するスポーツ選手や、役者さんを大勢診ていました。サッカー協会から打診があったとき、あいにく院内の先輩たちは出払っていて、私に声がかかったんです」
1979年のワールドユースは、あのディエゴ・マラドーナが世界の舞台で華々しくデビューした大会として、今でもサッカーファンの脳裏に深く記憶されている。
「だから私の自慢はね、マラドーナと同じ大会で国際大会にデビューしたってことなんですよ」
この大会がきっかけとなり、妻木は幾人かのサッカー関係者と知り合い、その誠実な仕事ぶりは彼らの信頼を得た。2年後、妻木が治療院を離れた後、どうしても彼を日本代表のトレーナーとして使いたい、と治療院を説得してくれたのは、ワールドユース日本代表でコーチを務めた森孝慈だった。
<次のページへ続く>
1988年2月、妻木充法は日本代表の仕事を離れ、ドイツへ渡る。代表チームのトレーナーとして働き始めて9年。その間チームは際立った結果を出せず、自分自身もマンネリ化した仕事のやり方に限界を感じていた。
その2年前、日本代表がドイツ遠征を行った際、彼に声をかけてくれたベルダーブレーメンというサッカークラブのGMのことを、妻木はふと思い出した。もしウチの仕事に興味があるなら、いつでも顔を出してくれていい。
「当時ブンデスリーガは世界最高峰のリーグです。見るもの聞くもの、すべてが新鮮な驚きでしたね。シューズはピカピカ、洗濯は専門の人がやってくれ、選手の部屋は個室。日本代表は大部屋で雑魚寝、洗濯はみんな自分でやっていましたから」
妻木がブレーメンに着いたのはシーズンの後半戦半ばだった。そこからシーズン終了まで、彼はアシスタントトレーナーとして、選手たちの肉体の治療や回復に携わる。
彼がチームに加わった3ヶ月後、ブレーメンはリーグ優勝を果たした。しかし、翌シーズンに向けて契約の話はいつまで経っても始まらず、優勝からずいぶんと時間が過ぎた初夏のある日、クラブのGMは申し訳なさそうに妻木に告げる。悪いけれど、君と契約は出来ない。日本の鍼灸師の免許ではドイツでは働けないんだ。
不退転の決意で臨んだドイツでの挑戦は、あっけなく幕を閉じてしまった。航空券も片道分しか購入していない。途方に暮れる妻木を励ましてくれたのは、現地在住の日本人音楽家夫妻を通じて知り合った1人のドイツ人だった。彼は妻木の置かれた状況を聞くと、自らブレーメンのオフィスまで足を運び、妻木の権利についてクラブと交渉してくれたのだ。結果、妻木には数ヶ月分のサラリーと、日本までの航空券代が支払われることになる。
「あれは心にしみましたね。ドイツにもこういう人がいるんだなって。その人と、音楽夫妻と、僕の4人で、ドイツを発つ数日前に小さな公園でお別れパーティを開いたんです、みんなで美味しい白ワイン飲みながら。そのとき彼がね、ギーター弾きながら言った言葉は、今でも忘れませんね」
Money is not everything.
帰国後、妻木は松下電器サッカー部に職を得る。Jリーグの誕生は徐々に現実的になり、JSL、日本サッカーリーグの動きは活発化していた。
ドイツでのショックはまだ癒えていなかったが、妻木の中には新たなことへ取り組もうとする意欲が生まれつつあった。松下電器サッカー部(のちのガンバ大阪)で働くことを決意した妻木は、大阪府交野市に新居を購入する。
ところがその後、松下電器はJリーグには参加しない旨を表明する。バレー部、陸上部、様々な活動を持つ松下としては、サッカー部だけを特別扱いできない、それが日本初のプロリーグ不参加の理由だった。
ショックだった。妻木には、長年サッカーに携り、たとえ数ヶ月とは言え、本場で仕事を経験しているのは自分だけだ、と言う自負もあった。
そんな彼に、今度は古河電工(後のジェフユナイテッド千葉)から声がかかる。早々にJリーグ参戦を決めていた古河も、プロ選手の肉体を任せるに値する優秀なトレーナーを探していた。チームの監督は清雲栄純、かつて日本代表で共に戦った仲間だった。
松下に不義をはたらくことは心苦く、悩みに悩んだが、どう考えても、プロリーグの誕生に参加しないことはあり得なかった。妻木は関係者に丁重に詫び、大阪の地を離れることにする。
<次のページへ続く>
妻木さんと出会ったのは2006年の末、FIFA開催の世界クラブW杯のときでした。
その頃の私は、たとえ1%でも自分の身体に不調を感じながらレフェリングをするのは、選手にとって失礼だと確信し始めていたんです。でも現実には、どこか故障しては治し、笛を吹き、そしてまた故障して治す、ということを繰り返していました。
もともとくすぐったがりやで、マッサージ治療が苦手だったというのもありますが、私には妻木先生と針治療の組み合わせがぴったりとはまりました。妻木先生の治療を初めて受けたとき、あ、これだなって納得したんです。それからは、故障しないために予め整える、というリズムが生まれました。
とは言え、先生の治療にはこれまで何度も助けられています。例えば2010年、ACL予選の試合後、私は判定を不服に思ったウズベキスタンのクラブの通訳に、突然後ろから右ふくらはぎを蹴られました。診断結果は肉離れ、車いすに乗って足を一歩もつかないで帰国しなきゃいけないというような状態で、本当に困りました。
なぜなら私には、その2週間後、W杯前に審判を対象にした体力測定が控えていたんです。この測定で候補にあがっている審判員はフィジカルテストを受け、タイトに設定されたランニングタイムをクリアしていかなければ、W杯には参加できません。
あの時も妻木先生の治療のおかげで乗り越えられました。妻木先生はどんなときでも絶対に「無理」って言わないんですね。バイデジタルOリングテストを用いて、ミリ単位のツボを探り当てて針治療を続けながら、「大丈夫だよ、気にするな」って、こちらのフィジカルだけでなくメンタルも含めて治していくんです。
その結果、私は奇跡的にそのテストをクリアできました。テストのあと先生に、まだすごく痛いんです、と訴えたら、そりゃ痛いに決まってるよ、まだ治ってないんだから、っておっしゃってましたけど(笑)。
(プロフェッショナルレフェリー 西村雄一)
<次のページへ続く>
2001年、妻木は日本サッカー協会から、日韓コンフェデレーションズカップに参加する審判のケアを担当するメディカルチームへの参加を要請され、続く2002年、日本と韓国で開催されたW杯にも同じ立場で参加することになる。
「1982年のW杯を私は現地スペインで見ているんです。何万人もの人々が熱狂して、心臓マヒで倒れる人までいて。この大会に日本が参加できるなんて絶対にないよなあ、って私は思っていました。だから、日本でW杯開催が決まったこと自体、私にとっては奇跡的なことだったんです」
およそ40日間、妻木は数人のトレーナーたちとともに、様々な国からきた様々な肌と様々な文化を背景に持つレフェリーたちの身体をケアした。練習前に必ず強めのお酒を一杯ひっかけてゆく北欧人、大会期間中にラマダン(断食)に入ったイスラム教徒、クールダウンでプールに集合したら、ブリーフ姿で現れたアフリカのレフェリー。審判を通じて世界を知る、そんな日々だった。
今現在、FIFA審判部はフィジカル、テクニカル、メディカルの三部門に分かれ、審判のパフォーマンスを最大限に引き出すシステムが確立されているが、2002年当時、まだメディカル部門は存在しなかった。それでも妻木は目の前の診療台に横たわるレフェリーの肉体と精神に集中し、精一杯の治療を施していった。
よほど妻木の治療が気に入ったのだろう。決勝戦の笛を吹くことに決まったイタリア人の名審判ピエール・ルイジ・コッリーナは、当日は審判控え室まで入ってほしい、と妻木に要請する。2002年6月30日、世界中のサッカー選手、審判、あるいはファンたちが夢見る舞台は、妻木充法の目と鼻の先にあった。
<次のページへ続く>
「スポット参戦だと思っていたんですけどね、FIFAでの仕事は結局その後も、2006年、2010年、そして2014年のW杯へと続いていきました」
2005年、その年、妻木の人生には二つの変化が訪れた。ひとつは今現在副学校長をつとめている東京メディカル・スポーツ専門学校の前身である東京スポーツ・レクリエーション専門学校で教え始めたこと。もうひとつは、2005年暮れに行われた世界クラブW杯で、再びFIFAから審判部門のメディカルスタッフとして招聘されたことだった。
妻木の仕事ぶりを誰よりも評価し、積極的に彼を組織の中に招き入れたのは、FIFA審判部長であるホセ・マリア・ガルシア・アランダという人物だ。自らも太極拳をやり、お茶を飲み、日本あるいは東洋的な思想に深い理解と興味を持つホセ・マリアは、自身も妻木の治療を受け、この人物はFIFAに必要だと瞬時に判断した。
「あなたの治療は私がいつもやっている太極拳や気功に通じるものがある。ぜひ次のW杯に来てくれないか?」
妻木はただの外交辞令だと思ったが、ホセ・マリアは本気だった。
2006年、妻木は14年過ごしたジェフユナイテッドを辞し、主たる活動の場をFIFAでのレフェリーメディカル部門へと移す。それ以降、2014年のブラジルW杯に至るまで、W杯のみならず、U-17、U-20、オリンピックなどFIFAの主催大会で、審判たちの肉体のケアに尽力してきた。2006年にはFIFAの外郭団体、F-MARCからやってきたスイス人理学療法士マリオ・ビジーニという気の合う仲間も手に入れた。
「ミツ、ミツ」、FIFAの大会に参加する審判たちは、妻木のことを親しみと尊敬を込めてこう呼ぶ。彼に診てもらえれば、まるで嘘のように痛みが消え、関節の可動域が広がり、精神のバランスが元通りになる。
「FIFA主催の大会に呼ばれると、ああミツに診てもらえる、これでやっと身体が治るって、痛んだ身体で駆けつける審判の人も、けっこういると思いますよ。ここは君たちの治療院じゃないんだから、それじゃあ困るって、FIFAは言ってるんですけどね」(西村雄一)
なぜだ?なぜ治っちゃうんだ?妻木が治療を施すと、あとには必ずこの質問が外国人の審判たちの口から飛び出してくる。その質問に答えるために(もちろんそれだけではないが)、妻木は2006年に順天堂大学夜間大学院に入学し、6年後には医学博士号も取得した。
「自分でもね、不思議だったし、今でも本当に不思議なんですよ。なんで治るんだろうって。あるいはなんでこんなに治らないんだろうって(笑)。大学院で実験してみると、確かに鍼を打つと可動域が広がったり、でも筋力はそのままの状態である、とか、具体的なデータが得られるんです。あれで、自分のやっていることにさらなる自信と確信が持てましたね」
人間の肉体の活動はブランコに乗っているような感じなのだ。と妻木は言う。体調がよければブランコは大きく力強いタイミングで揺れるが、調子が悪くなると揺れ幅は小さくなり、ときに左右が捩じれながら前後する。
「それを後ろからちょっと押してバランスを整えてあげるのが、我々の仕事なんじゃないかな」
<次のページへ続く>
2015年4月20日、東京都千代田区にある如水会館には、妻木の受賞を祝うべく、日本サッカー協会会長 大仁邦彌氏をはじめ、大勢のサッカー関係者が訪れた。その中には、原博実、西村雄一、清雲栄純といった妻木にとっては馴染みの深い顔も数多く見受けられた。
「自分のこと以上に嬉しかったね。ああいう式って、一次会が終わったらみんなとっとと帰っちゃうけど、二次会になっても誰も帰んなかったでしょ。あれって、やっぱり妻木さんの人柄なんだよ」(原博実)
今現在、妻木充法は週3回、西葛西にある東京メディカル・スポーツ専門学校に足を運んで治療を行い、年に3回ほど上級者対象のゼミを開催している。他にも、自宅で古くからの患者さんたちを診ているが、以前に比べれば、生活のリズムはそう慌ただしくない。長い間苦労をかけてきた奥さんには、FIFAの仕事もブラジルのW杯が最後だ、とすでに伝えてある。
でもね、と妻木は困ったような微笑みを浮かべながら付け加える。
「FIFA仲間のマリオ・ビジーニとも、ほんとにブラジルで最後にしようって約束してたんですよ。でも今回、こういう賞を頂いたら、やっぱりもう少し続けなきゃいけないのかなあ、って考えるじゃないですか。おまけにマリオはマリオで、またFIFAの仕事やり始めてるらしいし」
きっと奥さんはため息をついて、がっかりするに違いない。
でも、FIFAに集う世界中の審判員たちにとっては、この上ない朗報である。
<了>
写真・文
ATSUSHI KONDO
1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。