樋口豊は身体の弱い子どもだった。
小学校1年生のときに小児ぜんそくを患い、担当医からは、6年生までもてばいいでしょう、と診断された。
崖下に京浜東北線が走る、北区東十条の高台にあった家の小さな裏庭で、樋口はいつも一人ひなたぼっこをして時間を過ごしていた。だから、彼には低学年の頃学校に通った記憶がほとんどない。
幸いなことに、主治医の診断は外れ、樋口の肉体はひとつ春を迎えるごと、少しずつこの世界を生きてゆく力を蓄えていった。
小学校3年生に上がる頃には、ようやく学校にも通えるようになった。
初めてアイススケート場へ行った日を、樋口は今でも覚えている。それは1959年1月15日、小学校4年生で迎えた成人の日だった。
その日彼は家族と共に、水道橋駅のすぐそばにある後楽園アイスパレスに出かけた。白い楕円形のリンクの上にはたくさんの人がいて、冷たい空気の中を軽快な洋楽が流れていた。少し緊張したが、なんだか幸せな気分だった。
受付でずっしりと重いシューズを貸してもらうと、紐の結び方すらよくわからないその奇妙な革製の靴に、樋口は小さな両足を差し入れた。
手すりにつかまり、おそるおそる白い氷の上に乗る。足首と膝ががくがくと揺れる。樋口は勇気を出して手すりから手を離し、一歩足を前に出そうとした。どすん。一歩目で早くも転んだ。なんとか立ち上がって、また一歩足を前に出そうとした。どすん。また転んだ。
何度も何度も転ぶうちに、ほんの数メートルに過ぎないが、ときどき樋口の細く華奢な身体が銀色に光る細いエッジとシンクロし、氷の上をスムーズに移動していくことがあった。滑る、その不思議で快い魔法のような感覚は、一瞬のうちに樋口の心と身体を捉えた。
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もう一度スケート場に行きたい。樋口の願いが叶うにはそれからおよそ半年がかかることになる。
当時のスケート場は、ボーリング場や映画館と同じく、青少年が単独で出かけるには風紀上好ましくないところとされていた。同伴者なくして行くべからず。日本舞踊の師匠だった樋口の母親は、女手ひとつで樋口とその姉妹4人分の家計を支えていた。とても息子に付き添ってスケート場に行く時間はない。
それでも、小学校5年生になった晩春のある日、樋口は母親に「僕、やっぱりどうしてもスケート場へ行きたい」と、断られるのを承知でもう一度告げた。彼女は意外な答えを返してきた。
わかったわ、じゃああなた、スケートを習いなさいな。
高校2年生の樋口(写真提供:樋口豊)
名案だった。週1回、30分のクラス。遊びに行くのではなくスケートを習いにゆく。そのかわり、スクールが終ったら直ちに帰宅する。たしかにこれならば何の問題もなかった。
巣の中の小さくか弱いツバメの雛たちは、時が満ちればどんな鳥よりも美しい弧を大空に描いてみせる。
樋口はただ単にリンクの外周を幸せな気分で滑っていたかっただけの、身体の弱い少年だった。しかし、本人が望む望まないにかかわらず、才能は輝きを放ち始める。最初は週1回だった練習が、コーチの勧めでやがて毎日となり、毎日の練習はやがて朝から晩までの練習になった。
コンパルソリーが好きだったんです、と樋口は言う。1990年を最後にフィギュアスケート競技から廃止された、氷上に円を描くこの静かな種目が、樋口のお気に入りだった。
右ターン、左ターン、イン、アウト。当時のコンパルソリーは全部で6本滑り、そのトレースをどこまで正確に一致させることができるかに主眼が置かれていた。エッジを自在に扱えるようになればなるほど、氷上には完璧な円が深く刻まれてゆく。その完璧性の追求は、樋口の美意識にマッチしていた。
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グルノーブル五輪にて(写真提供:樋口豊)
1968年の冬季五輪はフランスのグルノーブルで開催された。
この大会に、樋口は国内2位の成績で日本代表選手として選出された(1位は現在フィギュアスケートで活躍中の小塚祟彦の父、小塚嗣彦だった)。
まだ17歳の高校生だった樋口は、さほどオリンピックというものを意識してはいなかった。五輪出場を目指してスケートに打ち込んできたわけではないし、当時の冬季五輪は社会的にも今日ほどの盛り上がりを見せてはいなかった。オリンピック? ふーん、僕が出るの? そんな感じだった。
しかしながら、グルノーブル五輪は樋口にとってきわめて意義深い大会となる。
大会での成績は25位だったが、初めての海外、そして初めて間近で見る外国のトップ選手たちの滑りのクオリティーは、樋口の心に強烈なインパクトを与えた。
彼らと自分のスケーティングには根本的に異なる「なにか」があった。なにが違うんだろう? 17歳の少年は、その「なにか」について考え続けた。
帰国後、いや帰国前から、樋口の心はもう決まっていた。とりあえず大学に籍を置くことにはしたが、母親を説得し、ぎりぎりの予算でやってゆくことを条件に海外留学の承諾を得た。スケート連盟から強化費が出るような時代ではない。ある資産家が樋口に援助を申し出てくれたが、己の才能に確信を持てなかった彼はその申し出を丁重に断った。
行き先はカナダのトロント。グルノーブル五輪で仲良くなったデイヴィッド・マギリブレーが間に立ち、彼自身も所属するフィギュアスケート界名門中の名門、トロント・クリケット・スケーティング&カーリングクラブへの扉を開いてくれた。
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2度目の海外。英語もろくに話せないまま、樋口はトロント市内に小さなアパートメントを借り、異国での生活を始めた。周りの人々は誰もが親切で、生活習慣の違いにとまどうことはあったが、精神的に追い込まれるようなことはなかった。辛さ? 樋口の言葉を借りれば、自分の一番好きなことに1日中没頭していられる日々に、辛さなどあるわけはなかった。
彼の得意なコンパルソリー。氷上に正しく丸い図形を描くように、日本ではそう教えられてきた。自分のエッジのぶれ、揺れは、自分の目で確かめながら修正してゆくのが普通だった。
自分の中のイメージに忠実に滑りなさい、カナダではそう教えられた。
同じスピードで同じ動きをすれば、必ず結果的に同じトレース、軌跡が白い氷の上に描かれているはず。たとえ目を閉じて滑っても、自分の感覚通りに滑ることができる技術を身につければ、1ミリのぶれもないトレースが滑った後に残っているはずなのです、と。
トロントで練習を始めたばかりの頃、樋口のトレースはむしろこれまでよりもさらにぶれ、スケーティングの調子が狂うことも多かった。本当にこれでいいんだろうか。そんな疑念が心の奥からわき上がることもあったが、樋口は自分がなぜトロントに来ることを決めたのかを思い出し、外国の強豪選手たちがやっていることを信じることにした。
できないならば、できるようになるまで練習する。コンパルソリーの練習は1コマが50分。それを樋口は1日に7コマこなし、さらにフリースケーティングの練習を3コマやった。合計で500分、ほぼ10時間の計算になる。彼が飽きることはなく、クリケットクラブの仲間たちからは、ユタカ、きみはクレイジーだよ、とからかい半分で褒められた。
クラブのリンクには鏡が備え付けられており、自分の滑る姿を眺めるのも、そして他の様々な選手たちの滑りを眺めているのも、刺激的で楽しかった。
フィギュアスケートに初めてクラシックバレエを取り入れたとされるトーラー・クランストンも、その時期同じリンクの上で練習していた。足を高く上げたり、後ろに蹴り上げたり、彼女が見せるエキセントリックなまでの新奇なスケーティングは、樋口の美意識にはちょっと適わなかったが、当時のクリケットクラブのリンクはいつも新鮮な驚きに満ちていた。
フィギュアスケートとは芸術性を競い合うものなのです。
音楽を身体で感じなさい。
美しさを表現することに意識を集中しなさい。
日本では聞いたことがなかったような言葉や表現、そして価値観が、そこには溢れていた。そしてなによりも、クリケットクラブの氷の上には、何年か後、何十年か後に樋口の力となってくれるたくさんの素晴らしい友人たちがいた。後に日本に来て様々な選手のコリオグラファーとして活躍するデイヴィッド・ウィルソンと知り合ったのも、このリンクだった。
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1972年、トロントの美しい夏と厳しい冬を4度ずつ過ごした後、樋口は日本へ帰国し、2度目のオリンピックである札幌五輪への出場を果たす。
グルノーブルのときとは異なり、長い間無理を言って苦労をかけ続けてきた母親のために、札幌五輪にはどうしても出場したいと願っていた。結果は16位、満足のゆく滑りはできた。
札幌から1カ月後、樋口はカナダで開催された世界選手権を最後の舞台として、現役を引退する。未練はなく、自分の中のすべてを出し尽くし、やるべきことをやるべきときにやれるだけやったという確信があった。
世界選手権の後しばらくの間、樋口はほぼなにもしない毎日を過ごした。現役引退後なにをするか? そんなことは、現役を引退するそのときまで真剣に考えたことはなかった。スチュワードにでもなろうかな、と思った時期もある。しかしそのアイデアは、知人の中国人スチュワードにあっさり否定された。ノー! ユタカ、きみはスケートから離れるべきじゃないよ。
自分にフィギュアスケートの才能がさほど備わっていたとは思わないし、他人と激しく競い合うことも、それほど好きではなかった。しかし、小学校4年生のとき、あの後楽園のアイスパレスで感じた魔法の感覚を信じたのは100%正しかったと思える。そこは確かに、樋口の生きてゆくべき世界だった。
引退からほぼ1年後、あまり深い考えもなくスケートを始めたときと同じように、樋口豊はフィギュアスケートの指導者として、第2の人生を再び氷の上で滑り始めることに決めた。コーチとしての最初の職場は、あの後楽園のアイスパレスだった。
2013年9月、樋口豊は63歳になった。
気がつけば人にスケートを教えることを選択してから、もう40年が過ぎたことになる。40年、その長い時間の中で、日本のフィギュアスケートは大きな変貌を遂げてきた。まさかここまでの人気スポーツになるとは、樋口がスケートを始めた頃には想像もできなかった。
日本のフィギュアスケートが大きく動いたのは、やはり1998年の長野五輪がきっかけだっただろうか。
安藤美姫選手の指導に当たったキャロル・ハイス・ジェンキンス氏と(写真提供:樋口豊)
1990年代前半から、冬季五輪の自国開催に向け、日本スケート連盟強化部は様々な強化策を練っていた。その中のひとつに、選手たちを海外で練習させる、あるいは選手たちと海外の一流の指導者、あるいはコリオグラファーを結びつける、というものがあった。
日本的な指導すべてが間違っているわけではない、しかしそれだけではどうしても勝ちきれない。頭ではわかっているものの、なかなか決めきれなかった「開国」を、26年ぶりの日本国内での五輪開催を控えた日本フィギュアスケート界は、ある意味で決断せざるを得ない状況に置かれた。
「開国」。その大きな潮流の変化の中、樋口豊は日本と世界をつなぐ橋として、大きな役割を演じた。彼にはトロントを始めとする様々な土地で培った豊富な人脈があった。自分には勝つぞという意欲が足りなかった分、誰もが仲良くしてくれたのかもね、と自身は冗談めかすが、樋口には人から好かれる天性の朗らかさがあるのだろう。
彼が選手と指導者の間に入ると、気難しいと噂される一流コーチたちも首を縦にふってくれた。そしてその樋口豊という橋を伝って、本田武史、伊藤みどり、村主章枝、安藤美姫、宮本賢二といったトップスケーターたちがさらなる高みへと上っていった。
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現在、樋口は東京の千駄ヶ谷にある神宮アイススケート場でヘッドコーチを務めている。毎朝7時過ぎに起き、軽い朝食をすませると、自宅からスケート場まで歩いてゆく。レッスンは朝8時から始まり、遅いときは深夜前まで続く。
対象はオリンピックを目指すエリートから一般人まで様々だ。中には80歳を過ぎてもまだ、1センチでも高くジャンプを飛びたいんです、とがんばっている生徒もいる。我が子に期待しすぎる親もいれば、才能はあるのに周囲の期待に応えきれない若者もいる。
生徒のレベルの高低にかかわらず、樋口は同じ熱意でコーチングに当たる。特に子どもたちには、ことさらの愛情を持って接することを心がけている。彼らは家庭よりもスケート場でより長い時間を過ごす。コーチを務める人間は、その事実を真摯に受け止め、大きな責任を負わなければならない、と樋口は思う。
昔も今も、スケートを教えることへの情熱は変わらない。そして、さぼる子どもが許せないのも、変わらない。できるかできないか、それは他人との比較であり、同時に各々の選手自身の中での比較でもある。
コーチを始めたばかりの頃、樋口は生徒に厳しかった。自分が滑っていたときはそれほどでもなかったのに、子どもたちにはなんとか勝たせなければ、と焦りもした。声も荒げた。
その後、40年という長い年月をかけて、樋口は少しずつ自分なりのフィギュアスケートに対する哲学を確立していった。樋口豊の哲学、それは一言で言えば「美しく滑る」ということに尽きるだろう。
飛んだり跳ねたりのスケートは、樋口自身は正直それほど好きではない。しかしフィギュアスケートはあくまでも競技スポーツであり、アイスショーではない。故に、もしそれが勝つために必要なのであれば、ジャンプのトレーニングだってしっかりとしなければならない。時代は移り、ルールも少しずつ変わってゆく。指導者である以上、そこに敏感に対応してゆくのは当たり前のことだ。
しかし、と樋口は強い口調で続ける。ジャンプを成功させても勝てない選手だけは育てたくないんです。ジャンプは才能によるところが大きいけれど、美しく滑る技術は、正しいコーチングと正しいトレーニングで必ず身に付くはずなのですから。
ここ数年、フィギュアスケートを学ぶ子どもの数は増え続けている。それは喜ばしいことではあるが、残念ながらリンクの数と広さには限りがあり、練習の順番を待たねばならない子どもたちもいる。リンク上で順番を待ちながら、友人たちとのおしゃべりにいそしむ生徒たちに、樋口は時折こんな言葉を投げかける。
スケート場だけがスケートの練習場所ではないでしょう?
もしそこに滑るスペースが見つからないのなら、たまには近くの新宿御苑まで足を運んで、季節ごとの表情を見せる木々や草花を眺めてくるのもいい。なぜなら、美しい自然、それもまたあなたのスケーティングになにか特別なものを与えてくれるはずだから。
つまるところ、美しいスケートとは、滑る人そのものにあるのだから。
<了>
写真・文
ATSUSHI KONDO
1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。