それは職業安定所からの帰り道だった。
彼はある職業訓練学校の前を通りかかり、学校の壁に張り出された何枚かの張り紙のひとつにこんな文字が書かれているのを見た。義肢科。義肢って言うのは、たぶん義足とかのことを言うんだろうな。そう考えた次の瞬間、彼は一人の女性のことを突然強く思い出した。
彼女は彼が小学6年生のときのクラス担任だった。大学を卒業したばかりの若いはつらつとした女性教師だった。しかし彼女は夏休み前、彼と彼のクラスメートの前からある日姿を消す。聞くところによると、先生は重い病気にかかってしまい、しばらく入院することになったそうだった。
6ヶ月後、もうすぐ卒業という季節に、先生は再び教室に戻ってきた。以前と違って、彼女は足を引きずりながら歩いていた。
いったい先生はどうしたんだろう?
骨肉腫という病気のせいで足を切断しなければならなかったの、彼女は彼にそう教えてくれ、スラックスの下にある新しい脚を触らせてくれた。それはコツコツとしたなんだか固い感触の脚だった。
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日本義肢装具士界の第一人者、臼井二美男は1955年、群馬県前橋市の農家の次男として生まれ、小学、中学、高校時代を前橋で過ごした。中学時代は卓球部と美術部に所属し、本人曰く「中学まではよく勉強する優秀な」生徒だった。
高校は県内一の進学校へ進み、学校では空手部と応援団に所属した。市内の中心部にある高校は、彼にとって初めての街での生活だった。臼井少年の興味は勉強よりも仲間と過ごす時間、人と関わる時間へと移ってゆき、勉強はもう以前ほどはしなくなった。
大学は東京の私立大学の文学部へ進んだが、キャンパスライフには最初からうまく馴染めなかった。入学から2年と少しが過ぎたとき、臼井は大学を中退する。結局文学部での勉強に興味は持てなかったし、大学をやめることへの躊躇もなかったが、自分を大学までやってくれた両親への申し訳ない気持ちは心の中をさまよっていた。
大学を中退した臼井は、以前にも増してバイトに精を出すようになる。大学をやめた以上、もうこれからは親の仕送りに頼ってはいけない。しかし、働くことは全く嫌ではなかった。どんなことでも懸命に打ち込める、それは臼井に備わっていた才能だったのだろう。
あるいは、彼が中学のとき目の前でぼそりと祖父が口にした言葉が、その後の彼の働くことに対する姿勢を決定づけたのかもしれない。
農業ってのはすごくいいもんだ。自分が本当に耕した分がちゃんと返ってくる。
赤城山をバックにして、地味な農作業に懸命に打ち込む祖父の姿が、臼井にはとてもかっこよいものに見えた。
バーテン、音楽事務所、露天商(つまりテキ屋だ)、臼井はありとあらゆるバイト仕事をこなし、どの職場でも上司から高い評価を受けた。君、このままこの仕事を続けてみないか?店長にならないか?
しかし、どんな仕事をやっても臼井の心はなぜか満たされず、気がつくとまた次の仕事に就いていた。毎日午後2時頃になると、必ず胸の内をこんな思いがよぎっていった。オレはこんな仕事をしていていいんだろうか?
彼はまだ世界を知らず、この世界にある様々な仕事のことも知らなかった。田舎の両親は、銀行員や公務員になれ、といかにも田舎の人が言いそうな台詞をいつも口にしたが、それもまた臼井のイメージとは違っていた。
そんな20代後半のある日、臼井は大塚にあった職業安定所に寄った帰り道、その張り紙を目にし、小学時代のあの若い先生のことを思い出したのだった。
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あとになって考えれば、きっと運命だったのだろう。臼井は興味をひかれ、その職業訓練校の中へと入っていった。休日だったがたまたま学校関係者の一人が居合わせた。彼は臼井に義肢科とはどういうもので、何を学ぶのかを丁寧に説明し、学校への入学を熱心に薦めてくれた。国からの補助金も出るから、これから1年勉強を続けるうえで特に生活で困ることもないよ。
臼井はこの学校で義肢の勉強を始めることに決め、それじゃあ今年の4月からよろしくお願いします、と挨拶をし学校を立ち去った。
翌日、臼井は電話帳を調べ、一軒の義足店に電話をかけた。これから自分が入っていこうとしている世界は、いったいどういう世界なのか?バイトではない初めての仕事。臼井はそこで自分が何をするのかを知りたかった。
臼井が最初に電話をかけた先は、都内にある小さな義足店だった。店主は臼井の問いに対して、うちのように小さな店の話は参考にならないから、と、もっと大規模な施設の電話番号を紹介してくれ、予め先方に連絡を入れてくれた。
翌日、臼井は当時東中野にあった鉄道弘済会を訪れる。工場の中では20人ほどの人が働いていたが、そのうちの10人は義足の人々だった。当時、鉄道弘済会は事故で障害をもつことになった社員の新しい職場という意味合いも持っていた。あんた足あんのか?はい、あります!そんな立派な身体の人間がこんなところで働いちゃダメだよ。
しかし、臼井の訪問を受けいれ、施設内を案内してくれた課長さんは、その日臼井の見学が終わると、明日もう一度ここに来てみないか、と誘った。理由は言ってくれなかったが、たぶん悪い話ではなさそうだった。翌日、臼井はもう一度東中野に足をはこび、昨日の課長さんからはこう尋ねられた。
どうだね、君ここで働いてみないかね?実は今度の4月に技術者の欠員が一人でるんだよ。学校に通っても、1年後にここで働けるとは限らないし。四谷にある本部からもう許可はもらっているし、もちろん学校の方にはちゃんと説明して、私からも丁寧にお詫びしておくから。
お願いします。臼井に断る理由はなかった。
課長の判断は、100%正しかった。28年後、臼井は日本で最高の義肢装具士の一人となり、何百人もの人に新しい希望や夢を与える存在となる。
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4月から9月まで見習いの期間を過ごした後、臼井は正社員として正式に採用された。鉄道弘済会で働き始めて最初の2年間、臼井は先輩たちが作った義足の仕上げを担当させられる。
早く自分も直に患者を担当したい。臼井は自分に与えられたタスクをこなしつつ、他のベテラン職人たちの仕事を積極的に手伝い、観察し、質問し、少しずつ自分のものとして吸収していった。
病気、事故、様々な理由で手や足を失った人々が毎日センターを訪れてくる。職場で目にする光景はそれまでの人生で見たことがないものだったが、臼井には長年のバイトで培った経験があった。とにかく一生懸命にやっていればなんとかなる、それが臼井の確信だった。
2年後、臼井はようやく一人の患者の義足を最初の行程から担当させてもらえるようになる。
義足は完全なオーダーメイドで、この世の中に同じ形をした足はひとつもない。義足の難しいところは、それが単に形の問題だけではないところ。ズボンのベルトをきっちりと締めなければ気が済まないオジさんがいるように、と臼井は説明する。ゆるめが心地よく感じる人も入れば、きつめがいい人もいる。ある人の皮膚はやわらかく、ある人の皮膚は硬い。痛みに対する許容範囲も人によって大きく異なる。
自分ではいい義足を仕上げたつもりでも、相手が納得しないことも頻繁にある。こんなものはけるかぁ!周りの目がある中で患者から義足を投げつけられたこともあった。
しかし臼井は腹を立てなかった。長い時間痛みと共に生きていれば、人間不機嫌にもなるし、性格も変わるさ。
あるいは、一人の中学生の足形をとり、ようやくその子の義足が仕上がって仮合わせをしたあと、その少年の様態が急に悪化して亡くなった、という知らせを受ける、そんな経験もあった。
たしかに自分の作った義足をはいて、それでその子の命が長引く保証はない。しかし同時に、ぎりぎりの状況の中では、良い義足をはくことで、さあこれで歩くぞとモチベーションが上がり、免疫力が上がり、その結果命が長引くケースもあるだろう。
義足に命がかかっている人もいる。そして、その新しい足を作るのは自分しかいない。自分があきらめてしまえば、その人は足を失う、ならば作り続けるしかないじゃないか。嫌なことがあっても、凹みそうなことがあっても、自分の悩みなんてとても些細なことなのだと、臼井は思うことにした。
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仕事にもようやく慣れてきた5年目だった。ある日臼井は業界誌をパラパラとめくっている最中、アトランタでのパラリンピックで活躍するアメリカのパラリンピアンたちの写真を見る。
臼井は自分の周りを眺めてみた。彼の働くセンターには生活用義足の部品は揃っていたが、競技用の義足のための部品は皆無だった。臼井はさっそく自ら手を挙げ、研究のために丈夫な部品を仕入れ、試験的に義足を制作した。
センターには当時1,000人ほどの患者がいた。先輩に、走れる人がいるかどうか確認してみたが、誰もが口を揃えて、そういう患者さんはみたことがないな、と答えた。
なんとか自分の周りでも義足で走れる人を。手探りでスポーツ用の義足を開発しながら、臼井は活動を始めた。協力してくれたのは25歳の女性だった。彼女に自らが開発した義足をつけてもらい、走るトレーニングを繰り返した。足を切断して8年、走ることなどすっかりあきらめていた彼女は、ある日走れるようになったとき、ポロポロと涙を流して喜んだ。
交互に足を出して走れることがどのくらい一人の人間にとって大事な動作なのか。臼井はそれを理解したような気がした。そこから、また一人、もう一人、臼井の周りから走ろうとする人間が生まれていった。まずはちゃんと歩けるようになる、次に少しずつスピードを上げてゆく、足を弾ませる、ある瞬間、5歩走れるようになる。走れるようになった人間は新しい自信を身にまとい、さらに走れるようになろうとする。
しかし、臼井の職場で走ることを患者たちに勧めることには無理があった。通常リハビリセンターでは患者が歩行できるようになった時点でセンターでのリハビリは終了となる。走ることを教えることはない。走ることにはそれなりのリスクが伴うし、もし万が一のことがあればそれはセンターの責任問題となる。あるいは訴訟問題に発展するかもしれない。
ならば。1991年、臼井は数人の仲間とランニングクラブを結成する。いや、それはまだランニングクラブというほどの中身でも規模でもなかった。月に1回、集まり、正しくスムーズに足を動かし、歩くことを練習する。身体を動かすのがいやならば、寄り集まって話をし、交流する。臼井にとって大事だったのは、まず機会を提供し、場所を作り出すことだった。若くて、元気で、本人がやろうと思えばできそうな若者は何人もいた。
この集まりでもし何かが起きれば、それは臼井の責任問題に発展したかもしれない。しかし臼井にとって大事だったのは、彼自身のことではなく、障害を持つ人々が再び走れるようになることだった。
クラブの名前はヘルスエンジェルス。これはクラブ結成から10年ほど経ったとき、臼井がつけた名前だ。アメリカの伝説的なアウトローバイカー集団、ヘルズエンジェルス(hell's angels)をすこしもじってこんな名前をつけてみた。日本語で書くと同じ音に聞こえるが、英語の表記はHealth Angelsとなる。弱い身体を持った集まりなんだから、せめて名前だけは不良っぽくてもいいじゃないか。
臼井も含めて5人。それが第1回目の練習に参加したメンバーの数だった。翌月の練習ではさらに1人増え、翌々月の練習ではさらに2人増えてゆき、今では200人近い人々がクラブのメンバーとして活動するようになった。
活動開始から23年、ヘルスエンジェルスからは佐藤真海をはじめとする何人ものパラリンピアンが生まれ、彼女たち、彼たちの存在は、障害者スポーツに新たな光をもたらしてきた。
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2014年、ヘルスエンジェルスは創設時と同じように、月1回の活動を続けている。集まるのは主に東京都内在住のメンバーだが、中には少し離れた県から練習に参加している人もいる。かなりのスピードで走れる上級者もいれば、まだ走り始めて間もない初心者、年配の男性、若い女性、小学校を卒業するかしないかぐらいの子供、様々な人が同じ場所に集まり、汗を流している。
まず最初に準備体操、次にウォーキング、その次に軽いランニング。メンバー全員をシャッフルして何チームかに分け、リレーをやって楽しむ時間もある。臼井もその中に混じり、ニコニコと笑いながら彼らと一緒に目標のコーンまで走って戻ってくる。
練習メニューの合間合間で、臼井は同時進行的に何人もの義足の具合を確かめ、調整し、初めて参加するという車いすに乗った女の子をクラブのメンバーに紹介し、取材に来たメディアに対応し、ひっきりなしにかかってくる携帯電話に対応する。それらの多くは、全国に散らばる臼井が担当する患者たちからの電話だ。
ただ単に義足を作るだけではなく、その義足をつけた人間の生活や人生とも密接に関わってゆく。義足は心とも密接につながっている。その人にとって良い義足を作るために心のケアが必要ならば、それもまた自分のやるべきことだと臼井は思う。その選択は彼の私生活から多くの時間を奪ってゆくが、臼井はそれこそが義足を作る仕事だと認識している。
ヘルスエンジェルスのトレーニングメニューは、団体から個人へと移行し、各々のメンバーが各々のメニューに取り組み始める。トラックをつかった短距離、中距離の練習、あるいは走り幅跳び。練習は早めに切り上げ、仲間とベンチに座って話し込んでいるメンバーもいる。ふざけ合っている子供たちもいる。
パラリンピアンが出たことで、たしかにヘルスエンジェルス、競技種目としての障害者スポーツに注目は集まる。しかしながら、ベースになるのはあくまでも一般の人々だ。市井の人々の義足を作り、そこで技術を磨くことが、より良いスポーツ義足の開発にもつながってゆく。市井の人々の中から一人でも多く走れる人間を育てていくことが、一流のパラリンピアンの育成につながってゆく。大きなものを失い、失望の時間をベッドの上や家の中で過ごし続けている若者を一人でも多く外へ導きだし、再び走れるようにすることが、より多くのパラリンピアンを生み出す原動力となる。
そこをおろそかにしてしまったら、5年後には走れる人間なんて一人もいなくなってしまう。
義足の一番の意味は、社会への復帰だ、と臼井は言う。彼らが良い義足を身につけ、再び社会に復帰して働けるようになれば、彼らのおさめる税金でまた新たな数の人々に社会保障が与えられることになる。生活が安定しなければ、スポーツを楽しむことすらままならない。
そしてその次に、再び走れるようになることがくる。走ることが、その人に新しい自信を与え、新しい希望を与える。
横断歩道を渡っている途中、信号が点滅し始める。以前なら中央分離帯でうな垂れて立ち止まっていた自分が、今では一気に向こうの歩道まで駆けてゆくことができる。立ち止まるか、駆け抜けるか、そこには大きな、とても大きな違いがある。その違いが、人の表情に笑顔を取り戻させ、人の心に優しさとゆとりをもたらす。臼井が作っている義足とは、そんな義足だ。
2時間後、ヘルスエンジェルスの練習は終わり、メンバーたちは三々五々練習場を後にしてゆく。臼井は練習道具を片付けると、大きなスポーツバッグを肩にかけ、メンバーの何人かと歩き始める。彼の携帯は相変わらず鳴り続けている。
<了>
写真・文
ATSUSHI KONDO
1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。