萩原受賞、おめでとうございます。
妻木ありがとうございます。
萩原受賞が決まったときのお気持ちは?
妻木びっくりというか、僕ですか?っていう感じですよね。今までこういった賞とは無縁でしたし、あんまり人に褒められたこともないものですから。
萩原表舞台に立って選手を支えたり、レフェリーを支えたりという立場ではありませんが、妻木さんたちがいなければ成り立たない世界があります。
妻木今はわりと当たり前になってきましたが、僕がこの仕事を始めた頃は、トレーナーやマッサーなんて贅沢、と思われていました。当時のスポーツはほとんどがアマチュアで、選手にはお金もないし、企業だってそうそう援助はしてくれない。そうすると、無料でやってあげるしかないこともありましたよ。
萩原トレーナーの重要性や必要性についての認識が深まってきたのはいつ頃からですか?
妻木プロ野球一辺倒の時代が終わって、Jリーグが始まった頃からでしょうか。僕自身、サッカーの日本代表での仕事を始めたのは1979年からですけれど、Jが始まる1992、3年あたりまでは日陰モンでしたから。
萩原日陰モンって(笑)。しかしサッカーの現場からスタートされたからこそ、その後活躍する世界の幅がグッと広がったのではないですか?
妻木最初はね、トレーナーになろうと思っていたわけじゃないんです。大学の時に目を患い、その後鍼灸学校に通い始めたんですが、このまま学校を出ても技術が身につかないと悩んでいたんです。ちょうどそんな時、学校で教えていた講師の先生が開業する治療院に、たまたま弟子入りさせてもらえました。あれは鍼灸学校2年目の時かな、そこで受付や掃除をしながら、先輩の技を見て覚えるという世界を経験したのが始まりでした。
萩原教えてくれるのではなく、見て覚える。なんだか料理人の世界のようですね。
妻木一緒一緒。包丁一本さらしに巻いて、と同じで、鍼一本持って、なんてことはないんだけど(笑)。なんとか学校を卒業し、一応いろいろなことができるようになったのが1979年頃です。その治療院はトレーナーをスポーツチームに派遣するというサービスもやっていました。当時はプロ野球最盛期、優秀な先輩はみんな野球に派遣されます。一方サッカーは三菱重工、フジタ工業、古河電工というチームがあったけれど、まだアマチュアでした。日本代表の仕事もあるにはありましたけど、たまにしかトレーナ-の要請は来ない。1979年の夏、サッカー協会から代表に誰か欲しいっていう依頼があったとき、ちょうどみんなプロ野球で出払っていて、僕だけが残っていたんです。それでその年のワールドユースに参加する日本代表チームに、僕が行くことに決まっちゃったんですよ。
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萩原すごいタイミング。でもそれがなければサッカーの道には行かなかったのですよね。妻木さんは幼い頃からサッカーをプレーされていたのですか?
妻木ないんです。ただまあ、出身高校はサッカーの強いところで、先輩に杉山隆一さん(メキシコ五輪銅メダリスト)がいたもんですから、縁がないとは言わないです。だけど自分がやっていたわけではありません。
萩原それにしても、いきなり代表チームの仕事というのはすごいですよね。それもワールドユースという、日本が初めて開催した国際的なサッカーの大会で。
妻木マラドーナもラモン・ディアスも、あの大会が世界デビューですもんね。ついでに僕もデビューさせてもらいました。
萩原同期ですね、同期。初めての代表チームでの仕事に、プレッシャーや戸惑いはなかったのですか?
妻木戸惑いどころか、何をすればいいのかもわからなかったです。自分の役割は何なのか? って自問自答するところからスタートして、とにかく気がついたことから懸命にやっただけでした。
萩原その時はおひとりなんですよね?
妻木はい、ひとりです。監督ひとり、コーチひとり、ドクターひとり、トレーナーひとり。当時はトレーナーがつくこと自体がまだ珍しいんです。でも、僕がやっていたことのレベルは低かった。今考えるとほんとに恥ずかしくなります。
萩原しかし、そのときに妻木さんが見せた懸命さが、次につながったのではないですか?
妻木ワールドユースでは監督が松本育夫さん、コーチは森孝慈さんがなさっていたんですが、その森さんが次のA代表の監督になられたとき、僕に声をかけてくださったんです。当時僕は治療院を辞めて静岡で開業したばかりだったのですが、森さんは治療院に直談判してくれ、直接協会から僕のところに仕事の依頼が来るようになりました。同じようなパターンが、三十数年後にFIFAでもありましたけど。
萩原それは妻木さんの人柄と腕ですよね。
妻木腕はないですよ(笑)。
萩原私も現役の頃は、鍼を受けたこともありますし、指圧やマッサージにも行っていました。トレーナールームに行くと、癒されることが多かったです。ポロっと愚痴が出ちゃったり、悩み事が出ちゃったり。なにかアドバイスをくれるわけではないのですが、聞いてもらうだけですっとする。そういう空間ですよね。
妻木まったくおっしゃる通りです。まさにそういう空間です。
萩原サッカー選手だけでなく、たくさんのレフェリーの方々も治療されてこられましたが、やはり彼らの口からもトレーナールームでは本音がポロっと出たりするのですか?
妻木FIFAの大会に行くと、レフェリーは外人ばっかりです。だから、本音も何も、まず言葉通じないんです(笑)。ムイビエン!(いいね)とか、ポルケ?(なぜ)とか。それくらいのスペイン語やポルトガル語ならいいんですけど、イスラム圏になると、なにを言っているのか全然わからない。
萩原その審判の方々の「なぜ?」に答えるために、順天堂大学の大学院に通われることにしたと伺いました。
妻木みなさん鍼については怖いってイメージがあるんですね。それを恐る恐る治療を受けてみると、すごく良くなってびっくりします。その後必ず聞かれるんです、なんでだ?って。しかも、外国人の方々の質問はしつこい。
萩原なんとなく想像できます。
妻木でも僕は英語で彼らの質問に答えられない。なぜかというと、日本語でも答えられなかったから。そういうきっかけもあって、大学院に行ったんです。そもそもこれ本当に効いているのかな? と自分でも思っていたし。
萩原えっ? ご本人も疑われていたのですか?
妻木もともと僕は大学で心理学をやっていました。だから、これはひょっとすると心理的な問題で、こうやったらよくなるよって暗示をかければよくなるのかもしれない、と考えたりもしていました。萩原さんもそう思いませんか?
萩原実際に鍼治療を受けさせてもらって、一瞬のうちに自分の肩や腕の回りが良くなると、疑うというか、信じられない気持ちにはなりますよね。信じられない、うーん、やっぱり私も疑っている、ということですね(笑)。
妻木そこで、大学院では実際に小さな鍼のついた置き針と、ついていない見かけだけ同じものを用意して、プラセーボ効果の実験もしてみました。すると、実際に鍼のついたものは本当に効く、体の柔軟性が確実に変化することが数値的にわかったんです。さらに、柔軟性は増すのに筋力は落ちないということもわかりました。通常、ストレッチで筋肉の柔軟性をよくすると、筋力は落ちますよ。
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萩原昔は試合前によくストレッチしろと言っていましたけど、最近は試合前に伸ばしすぎるとダメ、となりましたよね。
妻木30秒以上ストレッチすると、必ずパワーは落ちます。だから競技前に長いストレッチはできない。鍼治療でも同じように筋力が落ちるだろうなと思って、バイオデックスで測定してみました。ところが、これが落ちないんですよ。筋力が落ちることなく可動域は広がる、柔軟性は増す、ということはパフォーマンスの向上につながるかもしれません。加えて、この治療を行うと、自律神経の中の副交感神経だけ優位になってくるんです。だからリラックスすることもできる。
萩原すごいですね。妻木さんのそういった治療方法はご自身が編み出したのですか?
妻木私の治療はいろんなものの組み合わせなんです。ひとつはオーリングテストっていうんですけど、これは1970年代に大村先生っていうニューヨーク在住の日本人の先生が発明したテストフォームです。そこに従来学んできた鍼、最近ではYNSA、山元式新頭針療法っていう治療法にも注目しています。あとは漢方薬もすごいですね。鍼だけだとある程度はよくなるけれど100%の効果がなかなか出ない。そこに漢方薬の力を加えてあげると、劇的に症状が改善することがあります。
萩原妻木さんのようなトレーナーさんってなかなかいないですよね。鍼だったら鍼だけっていう人が多いのではないですか。
妻木僕自身は、必要なものを選んで組み合わせてきたわけです。やっていると困ることがあるじゃないですか。それでどうしたらいいかと考えて、順番に少しずつ改良していくんです。
萩原今のスタイルを作り上げたのはいつくらいなのですか?
妻木最終的には2年くらい前ですかね。もちろん完全には分からずに似たようなことをやってきました。でも理論として説明ができるようになったのは本当につい最近、大学院を出てからです。
萩原いくら頭の中ではわかっていても、なかなかそれまでの自分の人生を方向転換して、大学院で新しいことを学ぶってできないですよね。
妻木一生のうちに何回か、「これじゃマズい」って思う時ってないですか?
萩原たくさんあります(笑)。
妻木あるでしょ?その人生何度目かの「これじゃあマズい」が、54歳の僕に来たんですよ。
萩原何がこのままじゃマズいと思ったんですか?
妻木Jリーグが始まってから、僕はずっとジェフで10年以上働いていました。54、5歳、この業界だと若い人と交代したりして、皆さんだいたい引退し始める年齢です。僕はたまたままだやらせてもらっていましたけど、このままトレーナーで終わりじゃ絶対にマズいな、と思っていました。ちょうどそのタイミングで、2005年にクラブW杯が初めて日本で開催され、日本サッカー協会から、審判のケア部門で応援に来てもらえないかという依頼があったんです。そのときの仕事を気に入ってもらえて、翌年ドイツでのW杯にもFIFAから声がかかりました。嬉しかったんですけど、2006年は2006年、一発勝負で終わりじゃないですか。それでまたジェフに戻って、いずれそこでのキャリアも終わってしまう、それはマズいんですよね、やっぱり。
萩原妻木さんとしてはもっとステップアップしたかった?。
妻木そうです。これはあまり言っていませんが、教員の道っていうんですかね、鍼灸の先生になるか、それとも大学院に行くかちょっと迷ったんです。でも最終的には、教員になってもつまらない、研究したほうが面白いんじゃないかなと判断しました。だから順天堂大学に行き、ドイツ大会に行き、ジェフは辞めたんです。クビになるならその前に自分から辞めたほうがいいんじゃないかって。その後は、東京スポーツレクリエーション専門学校に顧問という立場で入れてもらい、そこから新しい勉強を始めました。
萩原意地悪な質問ですけれど、大学院を2012年に卒業されて、その後ステップアップしてますか?
妻木ステップアップはしてないかもしれないな(笑)。でも2012年を過ぎたあたりから様々なことに気付き始めたので、大学院に行って本当によかったなと思っています。あれ行かなかったらダメでしたよね、たぶん。
萩原妻木さんは本当に様々なことをやってこられていますね。勉強ももちろんそうですし、いろんなことを、自分で実際に体験されて、どんどん吸収して。すごいなあと思います。
妻木不思議ですよね。本当に不思議。その時はわからないんですが、結局、大学で学んだ心理も役立ちますもんね。その時はいつか役立つだろうなんて思ってやってないんです。でもその脳や自律神経についての勉強や研究が、30年後に突然生きてくる。よく世間では「思えば実現する」とか言うじゃないですか。僕自身は、目標を決めて少しずつそこへ向かってゆく、というタイプではありません。いつもその時のことだけしかやってないんですけど、それが最終的にいろいろ繋がってくるんです。
萩原その時々の、目の前にあるものを一生懸命やるだけだ、と。
妻木四六時中ずっと一生懸命やっていたわけじゃないですけどね(笑)。
萩原次の「このままじゃマズい」はいつ頃出てくるのでしょうか?
妻木孫ができて、お墓も買っちゃって。だから、もう「このままじゃマズい」はいいんじゃないですか。あとは、図書館行って、ちょっと喫茶店行って、本読んで。それが夢、と言っちゃうとかっこよくないですかね。
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萩原いえいえ、その夢はもちろん妻木さんに叶えて頂きたいですが(笑)、なかなか周りの人は許してくれないかもしれませんね。妻木さんを必要とする方々は患者さんにも、後輩の方々にもたくさんいらっしゃると思います。いま、東京メディカル・スポーツ専門学校のほうで副学校長をやられているそうですけれど、実際に現場で教えてもいらっしゃるのですか?
妻木授業はね、ほんの少しですけど、やってます。アスリートサポートクラブっていって、この学校は理学療法士と柔道整復師と鍼灸師を養成する場所なんですよ。その中でもトレーナーになりたいっていう人を対象に少しだけ講義を持っています。
萩原どうですか、教えるという作業は?実際に鍼をやる現場と教える現場とではまったく違うと思うのですが。
妻木みんなすごいですよ、目標があって、すごく熱心です。輝いてます。僕の頃とは違うなって思いますね。
萩原トレーナーの育成とか、今後、もっと積極的にやりたいとか、そういうことは特にないですか? お弟子さんを持つとか。あるいは、もういらっしゃるのですか?
妻木昔はいましたけど、皆さんもうすっかり一流になって第一線で活躍されています。だから、僕がやるより彼らがやった方がいいんじゃないかなって感じですね。
萩原いやいやいや。元祖はやっぱりそこにいてくれないと!迷ったときに帰ってくる場所がないと皆さん困るじゃないですか。妻木さんみたいな人がそばにいてくれると、スポーツ選手、あるいは審判の方々は安心して仕事ができますよね。もちろん一般の患者さんの方々も。
妻木それはよく言われますね。
萩原逆に言うと、みんなもう、妻木さんを失うのが怖くてたまらない状態なのかもしれません(笑)。
妻木でも、僕だってなんでもわかる、なんでも治せるわけじゃないですよ。治すのが難しい人もいますし、良くならない患者さんももちろんいます。
萩原例えば、妻木さんが苦手としている、治しにくい症状などはあるのですか?
妻木例えば、足首でも軽い捻挫くらいならいいですけど、断裂とか、剥離骨折した後にボルト入れて治したけれど痛くてダメだ、とか、そういう術後の症状は得意じゃないですね。構造的におかしくしなってしまったものを治すのは、僕らよりも理学療法士が診てくれたほうがいい。それはいわゆるリハビリに近い作業です。もちろん鍼灸も助けながらリハビリを進めたほうが上手くいくと思いますが、鍼灸だけじゃ限界はあります。それと、これはもう当たり前の話ですが、やはり若い人は治りが早いし、お年寄りは長引きます。これから成長していく人っていうのは、ちょっとしたことだけで反応してくれますけど、僕みたいに下り坂の人間はそんなに簡単じゃないですよね。下り坂の人を上り坂にするって難しいんです。
萩原なるほど。
妻木本当に難しいんです。いまだにわからないんですが、良いほうと比べて悪いほうを良くしようすると、痛いところが動かなくなってしまうことがある。逆に、良いほうをちょっと戻して、悪いほうをちょっと上げる、というふうに、左右差を無くすると、あまり違和感を感じなくなって、全体としてはよくなる印象を受けたりもします。
萩原つまりバランスの問題だと。
妻木そう。一言で言えばそういうことになります。
萩原でもそれだけで、気持ちの部分もすごく変わりますよね。
妻木不思議なもので、気持ちが変わるとこれがまた調子が良くなってくるんです。
萩原心が前向きになりますね。私、現役時代に妻木先生にお会いできていたら、面白かっただろうなあと思います。特に2回目の現役の時、5年間現役を休んでいて。毎日やっていたストレッチもまったくしていなかった。ですから、背泳ぎなんて、痛い!痛い!って感じで泳いでいたんです。日常生活で後ろに手を回すことなんてないので。
妻木少なくとも肩や背中の可動域は変えることができたでしょうね。
萩原でも可動域が得意なのに、水泳選手との出会いがなかったなんて、不思議ですよね。水泳選手は、可動域が大事なスポーツなのに。
妻木だからそれもやっぱり縁ですよね。本当に縁です。
萩原じゃあこの縁をきっかけに、今度は水泳のほうへいらっしゃってくださいよ。
妻木そうですね、機会があれば是非。
萩原だったら私も、もう一回現役に復帰しようかな(笑)。
<了>
写真=近藤 篤 Photograph by Atsushi Kondo