ほんのすこし目を閉じて、想ってみてほしい。
静かな体育館の中にいる。床にはバレーボールのコートと同じ大きさの長方形が描かれている。あなたはその長方形の短辺の一方に2人のチームメートと立っている。そしてコートの反対側には相手チームの3人がいる。
コートの中の6人は全員あるものをつけている。アイシェードだ。
ホイッスルが鳴る。両チームはコートの真ん中に引かれた1本の線を挟んで、中に鈴が入ったバスケットボール大の固いボールを転がし合う。コートの外にいる者は声を出してボールの行方を教えたり、指示を出したりしてはならない。
ボールがあなたの方へと転がってくる。わずかな鈴の音を頼りにして、あなたは聴覚だけでそのボールの動きを把握し、受け止める。ボールの重さは1.25キロ、勢いのついたボールを下手に受け損ねると、激しく指や手首を痛めることになる。
受け止めたボールはあなた自身が直接投げ返してもいいし、味方にパスをして相手チームを欺いてもいい。大事なのは相手のゴールがある方向を見失わないこと、味方と敵の位置をすぐさま認識することだ。
前半12分、ハーフタイム3分、後半12分。ボールが相手3人の間を抜け、後ろにある白いゴール(短辺の長さと同じだ)に転がり込めば得点となる。
ゴールボールとはそういう競技だ。
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江黑直樹は小学生の頃から運動の得意な少年だった。一番好きだったのは野球だったが、走るのも速く、小学生時代は地域のハードル記録も持っていた。
昭和40年代、彼のような子どもの多くが夢見たのは、甲子園に出場し、プロ野球選手になることだった。江黑もそうだった。
中学校を卒業すると、江黑は実家からさほど遠くない板橋区にある帝京高校へ進学することに決めた。帝京高校は前年の甲子園で準優勝を果たしたばかりで、自分の夢を叶えるためには最も適している場所に思えた。
1年間で休みはわずか4日、帝京高校での3年間はまさに野球漬けの日々だった。彼のポジションはキャッチャーで、1年生のときからその後ヤクルトに入団することになる伊東昭光の球を受けていた。
だが現実は厳しかった。キャッチングには秀でていたが、江黑の身体は監督を説得するには少し小さ過ぎたのかもしれない。パワー不足、監督はそう判断したようだった。
2年生になると、江黑は応援団長を任され(帝京高校は応援団も野球部の生徒が担当する)、スタンドからチームを応援する立場に回った。3年生になるとBチームのキャプテンに任命された。
高校野球でレギュラーになれない人間がプロになんかなれないだろう。帝京高校での3年間が終わると、江黑は1つ目の目標を諦め、より現実的な2つ目の目標へと舵を切った。
江黑が学んだ三芳東中学校に、中村という陸上部顧問の体育教師がいた。大学を出てまだ間もないその若い教師は担任でもないのに、江黑が運動をしているときはいつもそばにいて、様々なアドバイスを与えてくれた。
江黑だけではない。運動があまり得意でない生徒たちのことも、中村は決して見捨てることなく、根気よく面倒を見ていた。彼のおかげで蹴上がりやバック転ができるようになった子どもはどのくらいいただろう。
必ずできるようになるから。中村は子どもたちを諦めさせなかった。
中学校の体育の教師、それが江黑にとって2つ目の人生の選択肢だった。
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江黑は1年浪人をして日本体育大学に入学し、4年間真面目に勉強に取り組んだ。大学ではレクリエーション研究会というサークルに入り、夏や冬の休みには子どもたちや老人たちと一緒に過ごすアルバイトもやった。
しかし、江黑は埼玉県の教員採用試験に落ちてしまう。もう一度受けなおすことを考えなくもなかったが、最終的に彼が選んだのは、全国身体障害者総合福祉センター、戸山サンライズという施設への就職だった。
施設では研修係という部署に所属して、障害者スポーツ指導員の研修会や講習会の企画を専門家に依頼し、その手筈を整えた。障害者のスポーツ研修会に来るのは、日本を代表する各種スポーツのコーチや、視覚、聴覚、あるいは肢体のスペシャリストたちだった。全国の指導員たちとの人脈も自然と広がっていった。
戸山で働き始めて3年、江黑は講師の1人から、福岡の視力障害センターに体育講師の募集が出そうだからトライしてみたらどうだ、と勧められる。
研修係はやりがいのある仕事だったが、望んでいたスポーツ指導の機会が週に1、2度しかないことをすこし物足りなく感じていた江黑は迷わず試験を受け、合格し、福岡へと赴任することになった。その後福岡に16年も滞在することになるとは、想像すらしなかった。
1990年4月。江黑は福岡市の視力障害センターにやってきた。福岡市と言っても、センターのある場所は街の西端、すぐそばには小さな浜辺のある、のどかな海辺の村という趣だった。
赴任直後から江黑の担当する授業は始まった。ところが、資格は所持しているものの、江黑には視覚障害者の体育を実際に担当した経験がない。まったくの素人。当然そんなことは生徒たちにはすぐばれてしまった。
仕方がないので、前任者の残したカリキュラムを参考にしつつ、センターで学ぶ上級生の生徒たちに相談した。これはなに?ここはどうするの?中には新米指導員に厳しい眼差しを向ける人もいたが、生徒たちは概ね江黑に対して好意的だった。
落ち着いて指導できるようになったのは、1年が過ぎたあたりからだ。グランドソフトボールの他に、フロアバレーボール、卓球、いわゆる視覚障害者の3大球技と言われるものについてはルールも理解し、なんとか教えられるようになった。
江黑自身も目隠しをし、生徒たちとともにプレーした。そうしなければまったくイメージはわかないし、どう教えていいかもわからない。転がってくるボールをどう打つのか、ピッチャーはどうストライクを投げるのか、そんなことを考えながら、アイシェードをつけたまま長い時間を過ごした。
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1999年から2000年にかけて、江黑は国立福岡視力障害センターの若者たちとともに、福岡市が開催するフロアバレーボール大会の優勝を目指していた。そのトレーニングの中、江黑は視覚障害者のための球技にある違和感を覚え始めていた。
フロアバレーボールにしても、グランドソフトボールにしても、基本的には全盲のプレーヤーと弱視、あるいは視野狭窄といった、ある程度は見えるプレーヤーが組んで行われる。
後方の弱視者が指示を出し、前方の全盲者が動く。そこには必ず弱視者と全盲者の間にある種の力関係ができ上がってしまう。競技の特性上仕方のないこととは言え、彼の目にはそれがスポーツにおいて本来あるべきでない、プレーヤー間の差のように見えた。
そんなある日、江黑のもとに1本の電話が入る。電話の主は戸山サンライズ時代の旧友だった。九州地方でのゴールボール普及に協力してくれないか、それが用件だった。
当時すでに海外ではプレーされていたゴールボールという競技について、江黑は名前を聞いたことがある程度で、日本に導入されて協会が立ち上がったことは知らなかった。
わかった、やるよ。江黑はまずゴールボール協会の主催するオフィシャルクリニックで研修を受け、その年の西日本ゴールボール大会に自身もプレーヤーとして参加した。
3大球技に比べてもこの競技は難しいな、という印象を江黑は受けた。これまでのスポーツならば、後衛のプレーヤーから情報がすぐに入ってくる。あるいは外部からの指示も聞こえる。
しかし、ゴールボールでは全員が同じ条件、アイシェードをつけた3人のフィールドプレーヤー同士でしか情報を伝え合うことができない。笛が鳴らなければ外からの情報も入ってこない。慣れていないと、何が起こっているのかまったくわからないまま試合が終わってしまう。
けれど、これなら全員平等じゃないか。
傷痍軍人のリハビリのために生み出されたとされるこの球技は、彼がここしばらく考えていた問題に答えを与えてくれているような気がした。
翌年、江黑は福岡の視力障害センター利用者で男女それぞれのチームを作り、彼自身も監督として西日本大会に出場する。男子はまったく歯が立たなかったが、女子チームは西日本大会を勝ち、さらには全日本でも優勝してしまった。
初出場で初優勝できたのは、他のチームがどこもそれほど強くなかったから、と江黑は説明する。初めてゴールボールの女子大会を見た瞬間、これなら勝てるかもしれない、という第一印象を持ったのだという。普及し始めたばかりのゴールボールには、まだまだ可能性が残されていた。
2004年アテネパラリンピック(写真提供:江黑直樹)
2002年、ブラジルで開催されたアテネパラリンピックの予選会に、江黑が指導していた福岡のチームから女子選手2名が呼ばれ、そのときから彼もコーチとして正式に日本代表チームに参加するようになった。
世界の女子ゴールボールを見て江黑が感じたのは、2000年の西日本大会で感じたものと似ていた。たしかに他国はどこも強い。だけど、日本の選手たちはこれまでまったく運動などやったことがない子ばかりだ。もう少しやればフィジカル面も上がるだろう。これなら、いけるんじゃないか。
その予選会で、江黑はすべての国のプレーをビデオに撮り、2003年に行われた最終予選に向けて徹底的に分析した。当時のゴールボールはリハビリスポーツから競技スポーツへ移行している途上にあった。分析すればするほど、どの国にも付け入ることができそうな隙は見つかった。
最終予選で日本は3位の座を勝ち取り、アテネへの切符を手にいれた。そしてアテネでの本番では見事銅メダルを獲得した。やればできるはず、江黑の感覚はまたしても正しかった。
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世界でさらに上を目指すためにはフィジカルを鍛えなければならない。パワーアップ、それがキーワードだったことは間違いない。しかしながら、身体作りに重きを置き過ぎた分、技術面の強化がおろそかになってしまった。
2006年以降、日本代表は以前ほど勝てなくなり、江黑は監督の座を解かれてしまう。監督を解任されたときはもちろんショックだったが、これは決してマイナスではないのだ、と江黑は考えた。彼と一緒に組んでいた人間が上に上がり、江黑はすこし離れた場所からゴールボールをもう一度見つめることができた。
7位に終った北京五輪の翌年、2009年、江黑はふたたび女子代表チームの監督の座に復帰する。ゴールボールの競技レベルは4年間で驚くほど上がっており、中でも中国の強さは際立っていた。
北京での経験を経て、次の4年間で攻撃力をアップすることを決めた。メンバーを変えない方がディフェンスは安定するが、そのままではチームがぬるま湯につかった状態になりかねない。刺激を与える意味も込め、江黑は若い選手たちをユースから引き上げ、チームを再構築し始めた。
チーム内に競争を持ち込むことで、我々はリハビリスポーツをやっているのではなく、勝つための競技スポーツをやっているんだ、とみんなに意識してもらいたかった。
江黑が一番苦労したのは、女子ゴールボールの世界の選手層の薄さだった。トレーニングはいつも10人前後、選手数が少ないので選手同士の競争がなかなか生まれない。
盲学校のクラブ活動としてこの競技を知り、海外に行けるとか、全日本に入れるとか、そんな一面に魅力を感じて集まってくる選手もいた。一度海外に行くとやめてしまう選手もいたし、厳しく叱責すると、そんなに言われるのならやめます、と下を向く選手もいた。
加えて、彼女たちには子どもの頃から競技歴というものがほとんどなく、誰かと競い合った経験がなかった。だから、江黑が選手同士の競争を意識させようとしても、当の本人たちはどうしていいのかわからない。
この問題を、江黑は話すこと、コミュニケーションをとること、で解決しようと試みた。江黑本人の言葉を借りるなら、「視覚障害者には、言葉にすることが苦手な子が多い」。なぜなら、黙っていても周りがやってくれるから。
たとえば目の前にコップがある。水を飲みたいけれど、コップの中に水はない。彼女たちが置かれた環境では、水をくださいと言う前に、誰かが水をコップに注いでくれる。
同じようなことが、ゴールボールの世界でも起こる。パスをした方が有利な状況にもかかわらず、パスをください、と言われなければ、自分で投げてしまったり、次は私の番だと勝手に思い込み、何も言わずにパスを待っていたり。あるいは、疲れているから私の代わりにボールを投げてください、と言葉にできないがために、自分でボールを投げてハイボールの反則を犯してしまったり。
もっともっと仲間意識を植え付けていきたいんです、と江黑は力説する。選手同士がつながって情報を言葉にして流し合えれば、お互いに刺激し合える。わたしはこれを10回やったよ、じゃあわたしは20回やる。
運動選手はいろいろなことを目で見て学ぶが、視覚障害者は自分の体験でしか学べない。他の選手のプレーを目で見て読み取ることができない分、彼女たちの向上にとって、考えや行動を言葉に置き換えることはさらに重要になってくる。
とにかく話せ、伝えろ、こうなんだろうと勝手に思い込むな。
江黑は3年間ひたすらそれを言い続けた.結果、無口だった選手たちも少しずつ、話し、伝え、主張し、そして競い合うようになっていった。
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決勝の後半残り時間1分55秒。「気を引き締めるように」「呼吸を整える」ためのタイムアウトをとる。(写真提供:江黑直樹)
ロンドンの選手村に入ったのは大会の2週間前だった。日本を出る前に、やれることはすべてやってきた。男子の力を借り、速い球に対応する練習もした。あとは、選手村での共同生活でどうチームワークを高めるか、そこに専念するだけ。うまくやればうまくいく、という感覚はあった。
江黑が描いていたシナリオは、決勝で中国と当たり、そして守りに守って勝つことだった。日本が金メダルを獲得するにはそのシナリオ以外にはない。
8月31日に始まった予選で、日本はオーストラリアに3-1で勝つと、続くアメリカ戦も2-1でものにした。第3戦のスウェーデンには0-0引き分け、カナダには0-1で敗れたが、この時点で準々決勝進出を決めた。
カナダ戦の直前になって中心選手の1人、安達阿記子が体調を崩して熱を出したが、結果的にはそれが幸運だった。それが3戦目のスウェーデン戦や準々決勝のブラジル戦で起こっていれば、計算していた勝ち点や星を落としていたかもしれない。運まかせにはしたくないが、運もまた、金メダルを手にするためには大きなファクターだった。
準々決勝ではブラジルに2-0で勝利、続く準決勝ではスウェーデンを相手に4-3の激しい試合を演じ、決勝進出を決めた。選手たちは勝つために必死に戦い続ける。
9月7日の決勝の相手は、本命中の本命とされる中国だった。一人ひとりがパワフルで、受ければすぐに強烈なボールを投げ返してくる中国に対し、日本は緻密な守備を敷き、相手に綻びが出るまで耐え続ける。そんな戦いが予想され、実際その通りの展開となった。
1-0。日本勝利。
中国に勝てる国があるとすれば日本しかない、アメリカチームのコーチが残したコメントは正しかった。
決勝の舞台で戦った3人は、いずれも彼がゴールボールに引っ張り込んだ選手だった。競技を始めて間もない頃、ぼろぼろに負けて打ちひしがれる彼女たちを見ながら、江黑は何度も自問した。
優勝してからの最初の全体写真。表彰式では選手に「おめでとう」の言葉がけができず、会場出口で待ち構え、帰り際に撮影。(写真提供:江黑直樹)
これは本当に正しいことなのだろうか。ゴールボールをやらなければ、彼女たちはこんなに悔しい思いをしなくて済むのではないか。彼女たちに無理を強いているのは、自分が日の丸を胸につけていたいから、自分が金メダルを獲りたいからなのではないか。
いや、たぶんこれで間違っていなかったんだろう。100%の確信が持てたわけではない。それでも、歓喜に沸くロンドンパラリンピックの会場の片隅で、しっかりと抱きしめ合う選手たちの姿を見つめながら、江黑はようやく自らの問いに対する答えを出せたような気がした。
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2006年、16年過ごした福岡の地を離れた江黑は、埼玉県所沢市にある国立障害者リハビリテーションセンターで新たな働き場所を得た。現在は同センターの体育教官として授業を持ち、忙しい日々の中で時間を見つけてゴールボールに携わっている。
金メダルを獲ってから、授業での生徒の姿勢が変わり、誰もが真剣に聞いてくれるようになった。江黑は本来冗談の好きな男だ。笑いをとろうと思って口にした言葉に、オレは真面目に聞いているのに、なんでそんなふざけたこと言うんだよ!、そんなリアクションが返ってきて苦笑してしまうこともある。
ゴールボール、あるいは障害者スポーツへの理解も少しずつ深まってきた。江黑に言わせれば、視覚障害者のスポーツも健常者のスポーツも基本的には同じ、なのだ。障害者スポーツはことさら特殊なものではなく、スポーツの中にあるひとつのカテゴリーに過ぎない。
彼女たちは視覚に障害があるだけで、それは私が短気なところに障害があるのと大して変わらないですよ、と江黑は笑う。
だから、私が彼女たちに手を貸すのと同じように、彼女たちも私の足りない部分に手を貸してもらわないといけないんです。そのためにはもっとお互いにやり合わないといけない。
ロンドンで金メダルを獲った翌日から、早くも2連覇という言葉が江黑の周りで聞かれるようになった。江黑自身も当然それは狙っているし、ゴールボールの世界でやり遂げていないことはまだある。たとえば、すべての選手がすべてのポジションをこなし、予選から決勝まで、出場する選手の組み合わせがすべて異なるようなチーム作りを江黑は思い描いている。
けれど彼の中には、ゴールボールではないものに惹かれるもう1人の江黑直樹もいる。中学生でも、小学生でも、障害を持つ子もそうでない子も、運動が苦手だと言う子どもたちに、身体を動かす楽しさを伝えられるような仕事をしたい。
できないなんて言わないで、できるようになるまでやろうよ。必ずできるから。そのことを江黑は子どもたちに伝えたいと、今でも思い続けている。
そういえば。
江黑が体育の先生を目指すきっかけとなった中村先生とは、彼の勤務先である国立障害者リハビリテーションセンターで再会を果たした。脳梗塞による後遺症の治療が目的だった。
おまえがここで働いていると聞いたから。
先生は江黑のいるセンターに決めた理由をそう伝えた。
その後、中村先生はリハビリをやり遂げ、今は埼玉県内の中学校で教頭先生として再び生徒たちを指導している。
<了>
写真・文
ATSUSHI KONDO
1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。