スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

髙谷正哲

【対談】髙谷正哲×萩原智子

日本のスポーツを一段階上のステージに

INTERVIEW
MASANORI TAKAYA × TOMOKO HAGIWARA
髙谷正哲

MASANORI TAKAYA

(たかやまさのり)マッキャンエリクソンにて営業に5年間従事した後、渡米。シラキュース大学にてPublic Relations(広報)の修士号を取得。帰国後、大阪世界陸上にてインターン。2007年11月より東京オリンピック・パラリンピック招致委員会にて国際広報に従事。2010年2月、International Triathlon Union(国際トライアスロン連合)Media Managerの職に就き、本部バンクーバーを拠点に世界トライアスロン選手権シリーズなどの広報業務に従事。2011年9月より東京2020オリンピック・パラリンピック招致委員会 戦略広報部 シニアディレクター代行として招致成功に貢献。現職は、一般財団法人 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会 広報局 戦略広報部 戦略広報課長。

萩原あらためて、2020年オリンピック・パラリンピック招致の成功、おめでとうございます。そして、ありがとうございます。オリンピック・パラリンピックが東京に来るなんて!私、本当に嬉しいです。

髙谷ありがとうございます。

萩原髙谷さんも、もともとはオリンピックを目指されていたそうですね。そもそも、オリンピックを目指そうと思ったきっかけは何だったのですか?

髙谷1992年のバルセロナ五輪だと思うんですけど、テレビ中継を観ていて。それがきっかけになりました。

萩原私も同じです。

髙谷女子と男子のマラソンで有森裕子さんと森下広一さんがそれぞれ銀メダルをとりましたよね。ふたりとも同じような展開で、最後40km地点の丘をずっとデッドヒート。オリンピックって本当にすごいな、とあのとき初めて思ったんです。当時僕は野球をやっていたのですが、全然センスがなかった。でも走るのは好きだったので、高校で陸上を始めました。せいぜいクラスの中で速いレベルでしたが、速さや成績に関わらず、みんなオリンピックには憧れを持つじゃないですか。僕にもその気持ちはありました。その後、高校を卒業した頃にトライアスロンに出会いました。 2000年のシドニー五輪ではトライアスロンが正式競技になることが決まっていたので、新しいスポーツだし、頑張ればなんとかオリンピックに近づけるんじゃないかなあ、という皮算用があったんです(笑)。

萩原なるほど。いいところに目をつけましたね。

髙谷実際、結構強くなって、大学2年生でインカレ、大学3年生で初めて日本選手権に出ました。泳ぐのが遅かったのでエリートレベルには至りませんでしたが、デュアスロンという水泳がない競技で一度世界選手権に出ました。社会人になってからも続けていましたが、ある日、自転車を盗まれて、それで選手としての心が…。

萩原それが競技者としての引退のきっかけですか?

髙谷引退っていうほどではないですけれど、気持ちが完全に折れちゃいましたね。それからは、もう選手として一生懸命やるのはやめにして、違う方法でスポーツに携わりたいと考え始めました。で、あるとき、オリンピックには1万人くらいの選手が出場するけれど、フルタイムで給料をもらって働いているスタッフも3,000人くらいいることを知ったんです。じゃあ選手としてではなく、いつか自分もオリンピックで働けるようになろうと。そこから10年くらい経ちますね。

萩原10年で夢を叶えたんですね!

髙谷ところが、叶ってみると、意外と大変なことが多いんです(笑)。

<次のページへ続く>



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