スポーツチャレンジ賞



初めて彼の姿を見たのは7年前の5月だった。
その年のスポーツチャレンジ賞功労賞を受賞した義肢装具士の臼井二美男さんの取材で東京の王子にある小さな陸上トラックを訪れた時のことだ。

そこでは、臼井さんが仲間数人と立ち上げたヘルスエンジェルスという障害者のための陸上クラブチームが午後のトレーニングを行っていた。ベテランのランナー、走り始めてまだ間もないランナー、そしてこれから走り始めようとするランナー。義足をつけて走れるようになるのは決して簡単ではないが、トラックの上では年齢も性別もさまざまな人たちが楽しそうな笑顔を浮かべていた。
その中に一人のフォトグラファーがいた。上背があってちょっと小太り、彼は頭に白いタオルを巻き、パラアスリートたちに混じって一緒にストレッチをし、あるいはゲーム形式のリレーに参加しながら、カメラのシャッターを押していた。写真を撮りながら、選手たちと一緒に汗をかき、笑い合っていた。なんだかずいぶんとパラの世界に馴染んでいる人だなあ、そんな印象を受けた。
そのフォトグラファーが、今年度、ヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞奨励賞を受賞した越智貴雄さんだった。
FOCUSで書ききれなかった彼の子供時代のエピソードをもう少し書こうと思う。
越智さんは大阪の藤井寺市で育ち、高校1年生の時にひょんなことをきっかけに写真という表現方法に出会い、2000年のシドニーパラリンピックの取材をきっかけにパラスポーツの世界にどっぷりとつかることになった。

子供の頃からスポーツが大好きだったんですか?インタビューの際、そうたずねた僕に、越智さんは「自分でやったのは子供の頃の草野球くらいですけど」という返事のあと、藤井寺球場の話をしてくれた。
「当時はまだ近鉄バファローズが藤井寺を本拠地にしていたんです。僕自身もバファローズのファンで、藤井寺球場には何度も足を運んでいました。かなり弱かったですけど、それでも「いてまえ打線」と呼ばれていたように、とんでもない逆転劇を演じるようなところもある面白いチームでした」
夕暮れとともに点灯するカクテル光線、興奮していきなりフェンスによじ登るおじさん、2回の表から7回の表までずっと外野席の上に放置され続ける相手チームのバッターが放ったホームランのボール、あるいはバファローズが日本シリーズで3連勝したあとに4連敗したとき、空いた口が本当に塞がらなくなった自身の経験(小学5年生の時だった)。越智少年にとってのスポーツは、美しかったりおかしかったりする風景を見せてくれるもの、想像を超えた興奮や感情を与えてくれるものだった。
「写真を始めたときは、特にスポーツを撮ることを意識してはいなかったんです。それでも、シドニーオリンピック、そしてその後に続くパラリンピックを機に、スポーツの世界で被写体を追い続けるようになったのは、そんな子供の頃の原体験があったからかもしれませんね」
初めてパラスポーツを撮影することになったシドニーパラリンピック、開幕までの日々、越智さんは「こんな大変な思いをしてる人たちにカメラを向けていいんかな?」と悩んだそうだ。写真なんか撮ってる暇があるなら、なんか他にお手伝いできることがあるんやないかな、と。
しかし、いざ本番が始まってみると、彼が目にしたものは紛れもないスポーツだった。カメラのファインダーの中で、走ったり、泳いだり、飛んだりする人々は、日々努力し、工夫し、なんとしても昨日の自分を超えてゆこうとするアスリートたちだった。

そして。うわー、人間ってどんだけすごいんやろ!その驚きと感動は、シドニーから21年経った東京でも全く変わらない。
越智さんは言う。
「よくあるじゃないですか、人の進化を説明するときに、猿から類人猿になって人間になっていくシルエットの絵が。僕はね、あの絵のなかの人間の次に、そのうちパラアスリートの姿が描かれるんじゃないかなって思ってます。スーパーヒューマンっていう名前で、笑」
フォトグラファー越智貴雄、彼が撮り続けているのは、パラスポーツの向こうに見える人間という生き物の持つ無限の可能性、あるいは希望、なのだろうと思う。
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