スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

INTERVIEW
SHINICHIRO FUJIWARA × TOMOKO HAGIWARA

【対談】藤原進一郎×萩原智子

スポーツの生活化を目標に

指導員の一人一人が、とにかくやりたいことをやったほうがいい

萩原そうは言っても、それだけの強い覚悟を持って新しい世界に飛び込まれたのだと思いますが。

藤原そうです、と答えたいところですが、もしかするとそんなに深くは考えていなかったのかもしれませんよ。実際、教師の仕事は本当に楽しくやらせていただいてましたから。今日も大阪からここへ来る途中、品川駅で大勢の修学旅行生を目にしましたが、ああいう子供達を私も昔は連れて歩いておったんだなあ、と思い出しました。

萩原教師時代はご自身も修学旅行の引率などされていたんですか?

藤原ええ、九度ほど出かけました。東京なら皇居、明治神宮、東京タワー、当時は交通規制が厳しくて、バスで近くまで行けませんでしたね。江ノ島、長野、それから九州方面にも行きました。教師の立場で修学旅行に出かけると、いろいろありますからね。楽しかった思い出よりは、宿泊先の3階の窓から空き缶を投げ捨てた子供のことや、急にいなくなって皆を大慌てさせた子供のことなんかを思い出します。でも、中学生の子は手がかかると言われたりしますが、子供というのはまあみんなかわいいもんですよ。

萩原そんな日常から、ある日全く異なる身体障害者のためのスポーツセンター指導課長という立場に身を置かれたわけですが、当初戸惑いとかはありませんでしたか?

藤原どちらかというと管理職でしたからね。実際に現場で皆さんに接するのは、19歳や20歳の若者たちでした。私が直接プールに入って指導することはほぼありませんでしたし、人手が足りない時はアルバイトを雇っていました。ですから、やはり教師時代とは雰囲気は異なっていましたね。

萩原現場で動いてくださる皆さんには先生ご自身の思いや考えをしっかりと伝えられていたんでしょうか?

藤原そこはね、今でも少し悔いが残るところです。指導課長に就任するにあたって、私はなるべくそれぞれのトレーナーのやることに口は出さないように決めていたんですね。これは例え話としてよく口にするのですが、じっと止まっている車は、それこそどんなに叱って蹴飛ばしても、足が痛いだけ、ですよね。でも車が動いてさえいれば、たとえ反対方向へと進んでいても、ハンドルを切りさえすれば、スーッとまた正しい方向へと動いてゆく。ですから私自身は指導員の一人一人が、とにかくやりたいことをやったほうがいい、という考え方だったのですね。立ち止まって、こちらに向いてハイハイとお辞儀ばかりする連中を集めても、仕事にはならんじゃないですか。

萩原つまり、自分で考えて、自分で行動を起こせと。

藤原そうです。ただ、今考えてみれば、私も少し勘違いをしておったなあ、と思ったりもしますね。私もおよそ20年間、体育の教師として現場で生徒を教えておったわけですから、多少でもその経験を伝えてあげた方が良かったのかな、という気もしております。もちろんセンターに来られる方は、中学生ではないですから、通常のスポーツ指導とは異なる点はあったにせよ、基本的な部分で共通する指導法もたくさんありますから。

『まずは仲間づくりをしようじゃないか』

萩原その頃のスタッフの方々とは、今でもお付き合いがおありですか?

藤原今、2020東京パラリンピック委員会の事務局長をしている中森氏は、当時からのおつきあいになります。先日、彼の講演を会場の後ろの方で聞かせていただいたのですが、頸髄損傷のご婦人が平泳ぎについて難しい質問をした時、なかなか見事な返事をしておられましたね。確か彼はいまだにプールに入って指導をしておられるそうで、さすがに障害のある人たちのスポーツの現場をわかっている人間の発言だなあ、と。もしも変な答えを返すようなら、ちょっと待ちなさい、と出て行こうかと思っておったので、ほっとするやら、感心するやら、でした、笑。

萩原そうやって教え子の方々が次世代の方々へと先生のメッセージを伝えていってくれている、嬉しいことですよね。スポーツセンターで仕事を始められるにあたって、いろいろと先生なりのこだわり、これだけは譲れない、というようなものはあったのでしょうか?

藤原障害があろうとなかろうと、スポーツの生活化は誰にとっても大切なことですし、むしろ障害がない人よりもある人にとっての方が、スポーツはより必要なものなのではないでしょうか。スポーツの生活化、それはつまり、楽しく身体を動かしましょうや、その一言に尽きるのではないですかね。ですから、施設で開催した様々なスポーツ教室は、その楽しく体を動かす、ということを念頭に置いて始めました。例えば水泳なんかは生徒さんをまず二グループに分けて、一組は水の中で泳いでいるけれども、もう一組の方はプールサイドに座ってずっと喋っていればいいじゃないか、そんな感じで教室を運営していましたよ。泳げなくてもいいから、まずは仲間づくりをしようじゃないかと。仲間を作る、そこにリーダーができる、リーダーができると彼あるいは彼女を中心にして人の集まりができてくる、そこからクラブ活動が始まる、と。今ある日本身体障がい者水泳連盟は、あの施設のそういう集まりが発展していったものですし、卓球もそうです。ワイワイと喋っていた連中の輪がどんどん繋がって、さらに大きなものになる。ちょっと自慢になりますが、その辺は私のイメージ通りに進んだかな。

<次のページへ続く>



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