スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

妻木充法
FOCUS
MITSUNORI TSUMAKI
妻木充法の足跡

「淡々と、人を、癒す」

思いがけない大役

「角膜移植の手術を受ける前に、もし視力を失ったとしても身につけられる職業を選択する、と心に決めていたんです」

大学卒業後、妻木は幾つかの病院で脳波検査助手のアルバイトを続けながら、新宿にあった東洋鍼灸専門学校の夜間コースに通い始める。

入学して1年後、妻木はアルバイトをやめ、新宿にある小守スポーツマッサージ療院に弟子入りした。昼は治療院で内弟子として働き、夜は専門学校へ通うほうが、実際の治療に役立つ技術を一日でも早く身につけられるように思えたからだ。

治療院で働き始めて3年目の1979年、まだ駆け出しのトレーナーだった妻木は、その夏日本で開催されるサッカーのワールドユース大会に参加する日本代表のトレーナーの仕事を任せられる。思いがけない大役だった。

「治療院は、野球、芸能界、様々な分野で活躍するスポーツ選手や、役者さんを大勢診ていました。サッカー協会から打診があったとき、あいにく院内の先輩たちは出払っていて、私に声がかかったんです」

1979年のワールドユースは、あのディエゴ・マラドーナが世界の舞台で華々しくデビューした大会として、今でもサッカーファンの脳裏に深く記憶されている。

「だから私の自慢はね、マラドーナと同じ大会で国際大会にデビューしたってことなんですよ」

この大会がきっかけとなり、妻木は幾人かのサッカー関係者と知り合い、その誠実な仕事ぶりは彼らの信頼を得た。2年後、妻木が治療院を離れた後、どうしても彼を日本代表のトレーナーとして使いたい、と治療院を説得してくれたのは、ワールドユース日本代表でコーチを務めた森孝慈だった。

<次のページへ続く>



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