スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

中島正太
FOCUS
SHOTA NAKAJIMA
中島正太の足跡

歴史的勝利の向こう側

「その仕事、やりたいです」

大学は筑波大学体育専門学群に進んだ。社会人になってさらに上のレベルでやっていけるとは思えなかった中島は、プレーヤーとしてラグビーをプレーするのは大学まで、そう心に決めていた。

「栄養についても、ウェイトトレーニングも、これまでとは違った視点で見つめるようになったし、それを学べる環境が大学にはありました。この四年間が最後の時間、そう考えると日頃のトレーニングにも高校時代以上に真剣に打ち込むことができましたね」

ポジションはスタンドオフ、足が特別速いわけでもなく、フィジカルが強かったわけでもなかったが、中島は仲間の強みを生かせる賢い選手だった。二年生の時はほぼ全ての試合に出場、三年生の時は一度レギュラーポジションを失ったが、最終学年では副キャプテンとして全試合に出場した。

ラグビーをやりきったら、卒業後は体育の教師になり、ラグビーの指導者をやりたい。中島はそんな未来像を描き、実際に教職課程も履修していた。しかしラグビーの神様は、彼の人生の向かう先をほんの少しだけ変える。

大学4年の12月、最後の大学選手権が終わった翌日だった。ちょっと監督室に顔を出してくれないか。中島は監督の古川拓生から声をかけられる。

「セコムラガッツにアナリストの仕事があるそうだ。君に向いていると思うんだが、どうだろうか」

トップリーグ所属ではなかったが、当時セコムはラグビー部の強化に力を入れているチームのひとつだった。陣頭指揮をとっていた人物は現在日本ラグビーフットボール協会でGMを務め、エディ・ジャパン成功の立役者とされる岩渕健輔だ。

中島はセコムラガッツのチームディレクターを担当していた大村武則(現日本代表チームマネージャー)に連絡をとり、チームが本拠地を置く狭山市に向かった。この時の会話で、中島がはっきりと覚えている大村の台詞がひとつだけある。
「プロの世界だから、君がどんなに頑張っても、もしくはどんなに楽をしても、評価されるのは結果だけ、仕事の過程は関係ない」。
中島は答えた。「その仕事、やりたいです」

大村は当時を思い出しながら、こう語る。

「僕はヤマハ発動機からセコムに移り、岩渕のもとでチーム強化に取り組んでいました。チームは優れた分析担当を必要としていたんですが、海外からいきなり呼んでくるのは難しい。そこで、国内の様々な大学の指導者の方に声をかけていたんです。すると、筑波の古川監督から、いい子が一人いるよ、というお返事をいただいた。我々の仕事で、個人の資質として一番大事なのは、限りなく向上心があることです。しかし一方で、ラグビーはあくまでもチームスポーツですから、私欲が少ない、という人間でもなければならない。実際に会ってみると、正太はすべての面でスペシャルでした。だから、どうしてもこの若者が欲しい、ということになった。説得には時間がかかったような記憶があります。彼自身が教員を目指していたし、トップレベルのチームからアナリストの仕事を依頼されるということを、にわかには信じられなかったかもしれません。
仕事柄もあるんでしょうが、彼は冷静な男です。後の話になりますが、日本代表でエディ・ジョーンズが周囲を怒鳴り倒し、誰もが一度外に出て大きく深呼吸したくなる状況でも、正太は『エディさんまたなんか言ってますね』で済ませていました。かといって、数字とグラフを追いかけている冷たい男かというとそうではなく、孤立気味だったフランス人のスクラムコーチに、『こっちでコーヒー飲みませんか?』といつも声をかけるような心を持っています。エディは彼のことを間違いなく信頼していたし、僕にとっては宝物みたいな男ですよ」

<次のページへ続く>



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