萩原今日はよろしくお願いします。
藤原こちらこそよろしくお願いします。
萩原藤原先生はシドニーでのパラリンピックに日本選手団の団長として参加されて、41個ものメダルを獲得されたのですよね。私もそのシドニーで開催されたオリンピックに、選手として参加していました。
藤原ああ、そうでしたね。萩原さんとは、シドニーつながりでほんの少しだけですがご縁がありますね。もう随分と前の話になってしまいましたが、笑。
萩原ほんとにそうですね。あっという間です。
藤原41個のメダルと言っても、私が何か特別なことをやったわけではないし、メダルを取ったわけではありませんから。あの頃は、パラと言ってもまだ福祉的な要素が強かった。最近ではようやく競技としてのスポーツになってきた印象がありますね。パラの世界でもスポーツ色が強まってきたのは、ちょうどあのシドニーの頃からでしょうか。それまでは、それでスポーツやってるの?なんてレベルの選手もいましたから。
萩原先生はこれまで幾つもの賞を受けていらっしゃいますが、今回の受賞について、どういうお気持ちでしたか?
藤原まずは、ありがとうございます、という言葉を最初に述べなければなりませんけれど、表彰式にはたくさんの関係者の方々が来てくれました。あれだけ応援の人が来てくれたのは初めてだったので、なんだか特別な受賞になりましたね。
萩原先生は岡山県のお生まれで、障がい者スポーツの世界で活躍される前は、中学校で体育の先生を21年間務めていらっしゃいました。子供の頃から教師という職業を目指していらっしゃったんですか?
藤原いえいえ、まったくそういうことはないんです。母がずっと病気がちで、私としては早く一人前になりたかった。そして、教員になるための学校は入りやすかった、というくらいなものです。ですから、学校を卒業した後は、小学校時代から親しかった友達を頼って、すぐに大阪へと出て行きました。その友人も一昨年なくなってしまいましたが、まあ私も気がつくとちょうど平均寿命の年齢です。あまり煩く口出しして、嫌われないようにせんといかんなあと思いますが、笑。
萩原それがまたどうして、大阪市のスポーツセンター、障がい者のためのスポーツセンターで働くことになったのでしょうか?障がい者のスポーツとはその頃から深い関わりがあったんですか?
藤原いえ、それほど関わりはありませんでしたよ。学生時代、私は陸上をやっておったんですが、教師になってからも、陸上部の顧問をずっと務めておりました。陸上というのは、運動会なんてものに代表されるように、学校体育においてはある意味で中心的な存在なんです。そんな背景もあって、学校の教師をしてなおかつ陸上競技に関わっていると、自然とお役所の体育課長さんといった人々と懇意になることが多いんです。市や区のスポーツイベントがあるとすぐに、お前頼むよ、という風に声がかかるんです。
萩原なるほど、そこでスポーツセンターの件でも、先生に声がかかったわけですね?
藤原ちょうどその頃大阪市が、リハビリテーションセンターはちょっと置いておいてスポーツの施設を作ろうじゃないか、という決定を下しました。誰に任せたらいいかということになって、当然最初は市役所の中で体育課長へと相談が来る。そこから、じゃあ藤原くん、君も手伝ってくれんか、となりました。
萩原中学校教師から障がい者のスポーツと関わる立場へ、そのギャップに不安は感じなかったのですか?
藤原私はちょうど41歳だったんですが、特に不安というような感覚はありませんでしたね。新しい施設の館長は、ずっと福祉の世界で働いてこられた人で、その方には、藤原くん、白壁に自由に好きな絵を描いてくれていいから、とおっしゃっていただきましたから。他のことは何も心配しなくていい、君にはとにかく施設内のスポーツのことは一切任せる、というお話でした。なるほど、すべて任せてもらえるのなら、ということでその役割を引き受けたのです。今考えると、館長さんとしてはもっと競技スポーツというものを意識しておられたのかもしれませんが、中学校の体育教師だった私はもう少し広い意味でスポーツを捉えていたように思います。
学校の仕事は嫌いではなかったですが、やはり教師生活も40歳を過ぎてくるとやれ教頭だのなんなのと、いろいろ面倒くさいこともありますからね。まあ新しいことを始めるのも面白いやろうと。
萩原先生はそういう学校的なしがらみにとらわれていなかった分、自由に、自分のやりたいことをやり通せたのかもしれませんね。
藤原はい、萩原さんのおっしゃる通りです。ただ、今頃になって家で家内には文句言われますけど。よくまあ勝手に相談もせんと、と。
萩原えっ?奥様には転職について全く相談されなかったのですか?
藤原私はしたと思うんですが、相手は、していない、と言い張ってますから、まあしていないのかもしれませんねえ。元々、職場のことを家に持ち帰ったら、家の人間がかわいそうやから、という考えもありましたし。本音のところは、家で煩いこと言われるのはかなわんなあ、というのかも知れませんが、笑。
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萩原そうは言っても、それだけの強い覚悟を持って新しい世界に飛び込まれたのだと思いますが。
藤原そうです、と答えたいところですが、もしかするとそんなに深くは考えていなかったのかもしれませんよ。実際、教師の仕事は本当に楽しくやらせていただいてましたから。今日も大阪からここへ来る途中、品川駅で大勢の修学旅行生を目にしましたが、ああいう子供達を私も昔は連れて歩いておったんだなあ、と思い出しました。
萩原教師時代はご自身も修学旅行の引率などされていたんですか?
藤原ええ、九度ほど出かけました。東京なら皇居、明治神宮、東京タワー、当時は交通規制が厳しくて、バスで近くまで行けませんでしたね。江ノ島、長野、それから九州方面にも行きました。教師の立場で修学旅行に出かけると、いろいろありますからね。楽しかった思い出よりは、宿泊先の3階の窓から空き缶を投げ捨てた子供のことや、急にいなくなって皆を大慌てさせた子供のことなんかを思い出します。でも、中学生の子は手がかかると言われたりしますが、子供というのはまあみんなかわいいもんですよ。
萩原そんな日常から、ある日全く異なる身体障害者のためのスポーツセンター指導課長という立場に身を置かれたわけですが、当初戸惑いとかはありませんでしたか?
藤原どちらかというと管理職でしたからね。実際に現場で皆さんに接するのは、19歳や20歳の若者たちでした。私が直接プールに入って指導することはほぼありませんでしたし、人手が足りない時はアルバイトを雇っていました。ですから、やはり教師時代とは雰囲気は異なっていましたね。
萩原現場で動いてくださる皆さんには先生ご自身の思いや考えをしっかりと伝えられていたんでしょうか?
藤原そこはね、今でも少し悔いが残るところです。指導課長に就任するにあたって、私はなるべくそれぞれのトレーナーのやることに口は出さないように決めていたんですね。これは例え話としてよく口にするのですが、じっと止まっている車は、それこそどんなに叱って蹴飛ばしても、足が痛いだけ、ですよね。でも車が動いてさえいれば、たとえ反対方向へと進んでいても、ハンドルを切りさえすれば、スーッとまた正しい方向へと動いてゆく。ですから私自身は指導員の一人一人が、とにかくやりたいことをやったほうがいい、という考え方だったのですね。立ち止まって、こちらに向いてハイハイとお辞儀ばかりする連中を集めても、仕事にはならんじゃないですか。
萩原つまり、自分で考えて、自分で行動を起こせと。
藤原そうです。ただ、今考えてみれば、私も少し勘違いをしておったなあ、と思ったりもしますね。私もおよそ20年間、体育の教師として現場で生徒を教えておったわけですから、多少でもその経験を伝えてあげた方が良かったのかな、という気もしております。もちろんセンターに来られる方は、中学生ではないですから、通常のスポーツ指導とは異なる点はあったにせよ、基本的な部分で共通する指導法もたくさんありますから。
萩原その頃のスタッフの方々とは、今でもお付き合いがおありですか?
藤原今、2020東京パラリンピック委員会の事務局長をしている中森氏は、当時からのおつきあいになります。先日、彼の講演を会場の後ろの方で聞かせていただいたのですが、頸髄損傷のご婦人が平泳ぎについて難しい質問をした時、なかなか見事な返事をしておられましたね。確か彼はいまだにプールに入って指導をしておられるそうで、さすがに障害のある人たちのスポーツの現場をわかっている人間の発言だなあ、と。もしも変な答えを返すようなら、ちょっと待ちなさい、と出て行こうかと思っておったので、ほっとするやら、感心するやら、でした、笑。
萩原そうやって教え子の方々が次世代の方々へと先生のメッセージを伝えていってくれている、嬉しいことですよね。スポーツセンターで仕事を始められるにあたって、いろいろと先生なりのこだわり、これだけは譲れない、というようなものはあったのでしょうか?
藤原障害があろうとなかろうと、スポーツの生活化は誰にとっても大切なことですし、むしろ障害がない人よりもある人にとっての方が、スポーツはより必要なものなのではないでしょうか。スポーツの生活化、それはつまり、楽しく身体を動かしましょうや、その一言に尽きるのではないですかね。ですから、施設で開催した様々なスポーツ教室は、その楽しく体を動かす、ということを念頭に置いて始めました。例えば水泳なんかは生徒さんをまず二グループに分けて、一組は水の中で泳いでいるけれども、もう一組の方はプールサイドに座ってずっと喋っていればいいじゃないか、そんな感じで教室を運営していましたよ。泳げなくてもいいから、まずは仲間づくりをしようじゃないかと。仲間を作る、そこにリーダーができる、リーダーができると彼あるいは彼女を中心にして人の集まりができてくる、そこからクラブ活動が始まる、と。今ある日本身体障がい者水泳連盟は、あの施設のそういう集まりが発展していったものですし、卓球もそうです。ワイワイと喋っていた連中の輪がどんどん繋がって、さらに大きなものになる。ちょっと自慢になりますが、その辺は私のイメージ通りに進んだかな。
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萩原私自身も、障がい者の方のスポーツ=リハビリ、治療、そういう風にしか捉えられなかった時期がありました。先生が、障がい者の方も普通にスポーツを楽しむべきだ、と思われるようになった何かきっかけはあるのですか?
藤原いえ、特別な出来事は何もないです。スポーツセンターの指導課長に就任した際、ある意味で私は障がい者スポーツの素人でした。でも、素人だったからこそ、スポーツをリハビリや治療と捉えることがなかったのだと思うんです。
萩原センターはあくまでも皆さんにスポーツを楽しんでもらう場であって、治療の場所ではありませんよ、ということですね。
藤原その点は徹底していましたね。PT(理学療法士)も一人はいたんですが、その子がつい自分の専門分野に傾きかけると、いつも私に説教くらっていましたねえ、笑。
萩原利用者の皆さんの反応はどうでした?今までのコンセプトとは全く違う新しいスポーツ施設、きっと皆さん喜ばれていたんでしょうね。
藤原例えばプールに行って、水着一つになって水に入る、そりゃあ気持ちいいもんですよ。障がい者の方だけじゃなく、我々だってたまに身にまとっているものをすべて取り払って水の中で泳ぐ、それだけで随分気分が良くなるわけじゃないですか。他にもセンターには、ボウリング場だとか卓球場もありましたから、皆さんそれなりに楽しんでいただけたんじゃないでしょうか。
萩原その他に、先生がこだわられたことはありますか?
藤原ボールでも道具でも、そういうものは倉庫にしまっておくのではなく、出しっ放しにしておきなさい、ということですかね。これは最初スタッフには嫌がられたかもしれません。出しっ放しにしながら、でもちゃんと管理をしろと言われる、現場の人間は少々困惑しますよね。
萩原すぐにそういう道具やボールを手にして、スポーツで遊べる空間を作りたかった、ということですよね?そういう発想は、どこから出てきたのですか?
藤原うーん、わかりませんねえ。学校にいたから、いや、どうなんでしょうか、そこらへんもあまり深くは考えたことがありません、笑。
萩原スポーツセンターで指導課長としての忙しい日々を送られる一方、藤原先生はパラリンピックのコーチ、監督、団長さんとしての活動も精力的にこなされてきました。
藤原スポーツセンターができたのは昭和49年、その数年後には私もいろいろな活動に参加させていただくようになりました。それまでのパラリンピックの現場で中心的な役割を担っていたのは、リハビリテーションセンターの人たちでした。ですから、障がい者のためのスポーツセンターが初めてできたということは、つまりパラの世界に初めてスポーツの世界の人間が入り込んできた、ということにもなります。
萩原藤原先生のような方々がそこから先頭に立ち、スポーツとしてパラの世界を引っ張ってきてくれたからこそ、今こうしていろいろなことが活性化し、世界でも活躍できる選手が増えてきたのですよね。
藤原いえいえ、それはやっぱり選手の皆さんの頑張りですよ。あえて言うならば、私はみなさんがただ楽しくやっていたところに、パラリンピックというのは競技スポーツの世界やで、という考えを持ち込んだとは思います。私が大会に連れて行くのは選手であって、リハの患者さんじゃないよ、と。それだけのことですよ。
萩原なるほど、先生がこの世界に入っていらっしゃった時、選手を取り巻く環境についてはどうだったのでしょうか?
藤原コーチにしても、実際のところはまだ、介護人、というイメージが強かったですよね。要するに、選手を抱きかかえられる、というのがコーチの条件、ですからどうしてもコーチは男性に限られていました。しかし、実際には女性の選手も大会に参加するわけで、やはりそこには女性のコーチだって必要です。女性同士でしか話せないようなテーマもいろいろあるでしょうし、あっていいと思います。ですから私は、女性のコーチも必要だ、という主張をするのですが、古い考えの人たちからは、女性に選手が担げるのか、なんて議論が出たりもしていました。まあ私はこうですから、そういう議論なんて全く聞かなかったですがね、笑。
萩原日本のスポーツ界では最近になって、女性の活躍、女性の進出ということが、声高に主張されていますけれど、先生はその頃から一歩進んだところで物事をご覧になっておられたのですね。
藤原いえいえ、ごく当たり前のことでしょう。それに、私の周りにいた女性の関係者の方々は、心身ともにとてもしっかりした方々ばかりでしたよ。
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萩原今年はオリンピック、パラリンピックの年ということで、やはり先生もワクワク、あるいはウズウズされているのではないですか?
藤原いえ、いえ!私はもう40年あまり、この世界に携わってきた人間です。ですので、やはり何か機会があるごとに、昔はこうやった、とか、ああだった、とか、口を開いてしまうことがあるんですね。現在障がい者スポーツ協会の事務局長をやっておられる方も、スポーツセンターの現館長も、私のかつての教え子にあたる人間です。そういう立場にある身ですので、私自身は、聞かれれば答えることはありますけれど、なるべく口は出さないようにしております。家に帰っても、家の者からも、控えておけ、と口うるさく言われておりますし。
萩原今パラの世界はこれまで厚生労働省管轄だったことが、文部科学省、さらにはスポーツ庁へと移って行こうとしています。これから様々なことが加速して進んで行くと思うのですが、先生に続く後輩の皆さんへ、何かアドバイスはありますでしょうか?
藤原そうですねえ…、管轄の省庁が変わってゆくと、それまでの関係もまた大きく変わってゆきますよ。私自身、教師時代から今に至るまで、厚生労働省であるからこうだった、というネガティブな経験はほぼ一度もありません。文部科学省に移る、ということには別に反対ではありませんよ、だって元々スポーツと文部科学省というのはかなり密な関係でやってきたわけですからね。ただ、新しい関係の中で、新しい省庁の新しい担当の方々が、現場にああだこうだと口出ししすぎることになりはしないか、というのが若干気がかりではあります。お役所の方も当然仕事ですから、そりゃあお金の使い道とか、使い方といったものには敏感でしょうし、果たさねばならない責任もあるでしょう。しかし、現場には現場の人間しかわからない現実や感覚というものがありますからね。
萩原確かにそうですね。新しい秩序が生まれると、新しい人間関係がまた始まる。その中でいかに両者が協力しあえるか、お互いのことを考えられるか、そこが大事なのかもしれませんね。
藤原私は現役時代、お役所からの頼まれごとにはなるべく積極的に協力してあげるようにしておりました。彼らもやはり人間ですし、感情もあります。何にもわかってない!とこちらが憤っていても、それこそ何の解決にもなりませんよ。でも、お互いに助け合う関係を築くことができれば、多少無理なお願いだって彼らも、仕方ないなあ、と頭をかきながらでも聞いてくれるんじゃないでしょうか。
萩原人と人との関係性、本当に先生のおっしゃる通りだと思います。それでは最後に、この夏リオが終わると、その四年後はいよいよ東京です。2020年に期待されることってありますか?
藤原これは私の意見なのですが、今現在のパラの世界にとって大きな変化のきっかけになったのは、やはり1998年の長野が大きかったと思います。みなさんあまりそういうお話はされませんが、長野での大会開催を契機として、実に様々な組織ができたり、再編されたり、あるいはさらに大きな組織となって、一つの強いうねりになったと考えておるんです。一つの競技会というのは、それが続く一週間か二週間の間だけの話ではないですよね。そこに至るまでに、様々な準備があって、むしろその準備こそが一番大事な部分なのではないのかな、と思います。ですから、もちろん次の東京には大いに期待しています。長野であれだけのことが変わった、ならばもし東京で開催されたら、どれくらいのうねりや変化が起こるんだろうと。
萩原私もパラの世界に関わらせていただいている一人として、東京にはすごく大きな期待を寄せているんです。そしてもちろん、東京の後がどうなっていくのかについても、もっともっと考えていきたいですね。今日はわざわざ大阪からお越しくださり、本当にありがとうございました。大変勉強になる時間でした。
藤原いえいえ、こちらこそ、ありがとうございました。うまくお答えできたか、少々心配ですけれども、笑。
<了>
写真=近藤 篤 Photograph by Atsushi Kondo