「もしもし、モンデンさんのお電話でしょうか? 私はJPCの医事委員会のスヤマというものですが…、あなたは障がい者スポーツに少し関わっておられるようだけれども、今年の秋に1ヶ月ほど仕事を休むことはできますか?」
いたずら電話ではなさそうだったが、なんだか話の要領が掴めなかった。
「すみません、いま新人戦の決勝中なので、あとでかけ直してもよろしいでしょうか?」
電話の向こうの、たぶんとても重要な人物に丁重に詫び、門田は意識を目の前の決勝戦に戻した。
<次のページへ続く>
門田、と書いて、もんでん、と読む。
門田正久は1964年1月19日、栃木県日光市で生まれた。
父は非鉄金属を扱う大手企業のサラリーマン、転勤の多い職場に勤めていた。だから門田の少年時代は慌ただしい。幼稚園は神戸、小学校は神奈川県の綱島、そして中学1年生で広島へやってきた。
小さい頃からスポーツは好きだった。父にサッカーとアイスホッケーの観戦に連れて行ってもらったし、自分でも小学校時代はサッカーを、中学校では野球をやった。
「たいした選手じゃなかったです。ある日、監督さんからスコアボードの最後のところに書いてあるTの字の意味をたずねられて、トータルって意味じゃないですか、って答えたら、よし、お前がピッチャーやれ!って、そんな野球部でしたから。勉強ですか?いつも赤点ばかりでしたね」
本人は中学を卒業したら、調理師学校に行って板前かコックになるつもりだった。しかし担任の教師は、せめて高校には行っておけ、としつこく彼を諭してくれた。そうして広島市立翠町中学校を卒業すると、門田は県立広島皆実高校に進学する。
高校ではボート部に所属した。高校生になったら海か山のスポーツがいいな、と思っていたし、初めて学校の校門を抜けたとき、最初に勧誘の声をかけてきたのはボート部の部員だったからだ。なあ君、海はええよ、川もええよ。
しかし、いざ部活動が始まると、待っていたのは毎日続く地獄の筋力トレーニングだった。しかも、なぜか当時の筋トレは、炎天下のコンクリートの上で行われ、おまけにランニングのときはいつでも裸足だった。夏のアスファルトは裸足で走るには熱すぎ、冬は冷たすぎた。
「でも、あの頃の経験が今少しは役に立っているかな。きつい練習の最中、どこをどう突っつけばさらにきつくなるかはわかります」
ひたすらボートを漕ぎ続けていると、高校の3年間はあっという間に過ぎてゆく。大学に行くつもりはなかった。しかし、他に何かやりたいことがあるわけでもなかった。そんな彼の人生を、少しだけ舵取りしてくれたのは、当時内科医をしていた叔父だった。
正久、どうだ、理学療法士を目指してみたら?
<次のページへ続く>
理学療法士。それがどういう職業なのか見当もつかなかったが、叔父は信頼に値する人物であったし、なにか手に職をつけたいとは思っていた。
叔父の勧めを素直に聞き入れ、門田は安佐市民病院へ見学に出かける。そこで彼が見たのは、事故や病気で動かなくなった肉体を持つ患者に寄り添い、共に治してゆこうとする人たちの姿だった。この仕事は自分に向いているかもしれない。17歳の少年は、漠然とだがそう感じた。
ボートで鍛えた体力には自信がある、誰かが元気になってゆくことの手助けは楽しそうだし、おまけに給料までもらえるんじゃけん。
筆記試験の出来には全く自信がなかったが、面接では自分の熱意を懸命に伝えた。門田は入学試験に無事合格し、晴れて国立呉病院付属リハビリテーション学院の1期生となる。
「最初の2年間は相変わらずダメな奴でしたね。バイトとバイクばっかりの生活です。呉市に初めてのコンビニがオープンするところで、その店の立ち上げが楽しかったんです。授業はさぼる、問題は起こす、よく退学させられなかったなって、今でも教務主任の先生には心から感謝しています」
そんな門田が自分の果たすべき役割と真剣に向き合うようになったのは、入学して3年目、実習の授業が始まってからだった。期間は3ヶ月。学生は直接患者と接し、彼、あるいは彼の家族と相談しながら、自分の力で相手の肉体と向き合うことを求められる。
この人をもっと良くしてあげたい。その気持ちが強まれば強まるほど、門田は自身の力不足を痛感した。適当に勉強して、適当に授業に顔を出す、そんな生活では現実を騙しきれないことに気づいた。
まるでそれまでの彼が偽物に思えるほど、門田は勉強に取り組み始める。高齢者、交通事故、脳血管障害後遺症、脳性小児麻痺、原因も違えば、症状も違う。理学療法士の対応すべき世界の幅は広く、学ぶべきことは毎日山のようにあった。
その頃出会った一人のベテラン理学療法士の言葉は、今でも心の芯にしっかりと刻まれている。
「長いキャリアと経験を持った理学療法士と1年しか経験のない理学療法士、君ならそのどちらに自分の子供を任せるかい?」と、そのベテラン理学療法士は彼に問うた。もちろんキャリアと経験のある…、と門田は答えた。
「そうかな? 私なら、自分のキャリアと経験にあぐらをかいているベテランよりも、100%の熱意と力で患者に接する療法士を選ぶよ」
1984年春、理学療法士としての門田正久の生活は、医療法人社団朋和会西広島リハビリテーション病院でスタートする。彼の勤務先は、当時としては珍しく、チームドクターや管理栄養士の派遣といったサービスも提供していた。
彼はその病院で、日中はリハビリ部門の担当者として院内で患者の治療に携わり、夕方6時以降は高校や実業団の練習場に足を運び、トレーニングのアドバイスをしたり、選手にマッサージを施した。
「ちょうど、スポーツとスポーツ医学の関係が変化し始めた時期でしたね。壊れたら治すスポーツ医学から、壊れないようにするスポーツ医学への」
<次のページへ続く>
2000年の春先だった。門田は広島市の障がい者スポーツセンターで指導員をしていた人物から、唐突なオファーを受ける。当時、門田は15年間務めた朋和会を辞し、今現在彼が所属する飛翔会グループへ身を移してまだ間もなかった。
「その人は日本車いすテニス協会の理事をしていた方なんですが、その年のチームカップに参加する日本チームのトレーナーをやってみないか、って誘われたんです」
シドニーパラリンピックを数ヶ月後に控え、協会ではこの大会を非常に大切なものと位置づけていた。参加するスポーツから勝つためのスポーツへ、障がい者スポーツの世界は大きく変化し始めていた。トレーナー帯同の必要性、協会はその点を見極めたがっていた。
障がい者スポーツのチーム帯同トレーナー。門田にとっては初めての経験であったが、特に断る理由も尻込みする理由もなかった。選手のパフォーマンスを最大限に引き出すためのケアは、彼が長いキャリアの中でいつもやってきたことだ。
「ところが、でしたね。これまでの自分の仕事なら、試合のことだけを考えていれば良かったんです。でも、あの時はちょっと勝手が異なりました」
ケアすべき選手は9人、テニスは個人競技なので、選手によって試合時間も異なる。各選手の時間調整は難しかったが、門田にとっては、試合以外で選手の肉体にかかる負荷やストレスの方が気になった。
「たとえば、車いすテニスの選手たちは石畳や砂利道を、試合会場まで自分の腕で車輪を回して移動するわけです。ということは、試合が始まれば腕として使うべき肉体器官を、移動中は脚として使わなければならない。ハードな移動はせっかく調整した筋肉に微妙な疲れやストレスをもたらしてしまいますよね」
宿舎に戻れば戻ったで、慣れないホテルでの生活が待っている。試合後にほぐしたはずの筋肉も、トイレで、あるいはバスルームで、再び酷使されることになる。
そこには門田の知らなかったこと、気づいていなかったがたくさんあった。でも同時に、理学療法士の勉強をしてきた自分だからこそ、気がつくこともあった。
「彼らがどんなふうに、どの筋肉を使ってトイレの便座に移るかなんて、健常者相手のトレーナーではわからないですよね」
障がい者スポーツに関わる人間は、本当にすべてを理解していなければならないことを、門田はこの大会で深く認識する。
<次のページへ続く>
門田自身の記憶によれば、それは2004年4月のある週末だった。
「不思議ですよね。今になって考えても、なぜあの日あの電話が自分のところにかかってきたのかわからないんですよ」
でも、その電話はかかってきた。彼は、当時担当していた広島市内の高校のバスケットボール部の試合に同行していた。新人戦決勝、目の前では熱戦が繰り広げられていた。そのとき、ポケットの中で携帯電話がなり始める。待ち受け画面には見たことのない数字が並んでいた。
「もしもし、モンデンさんのお電話でしょうか? 私はJPCの医事委員会のスヤマというものですが…、あなたは障がい者スポーツに少し関わっておられるようだけれども、今年の秋に1ヶ月ほど仕事を休むことはできますか?」
いたずら電話ではなさそうだったが、なんだか話の要領が掴めなかった。
「すみません、いま新人戦の決勝中なので、あとでかけ直してもよろしいでしょうか?」
電話の向こうの、たぶんとても重要な人物に丁重に詫び、門田は意識を目の前の決勝戦に戻した。
試合後、門田は電話をかけ直した。電話の主は、日本障がい者スポーツ協会医事委員会会長の陶山哲夫教授だった。
実は、アテネのパラリンピックからJPC(日本障がい者スポーツ協会)はアスレチックトレーナーを帯同させようと思っている。ついては、あなたにその役目を果たしてもらえる可能性はあるだろうか? それが陶山教授の用件だった。
条件は3つ。まず、理学療法士であるということ。次に、日本体育協会の公認アスレチックトレーナーであること。最後に、障がい者スポーツのサポートを実践していること。そのいずれも門田はクリアしていた。
「クジ引きの結果なのか、名前の不思議さだったのか、はわかりませんが、何人か候補がいる中で、まず私のところに電話がかかってきたようです」
こうして、2004年9月17日から28日まで行われたアテネパラリンピックに、門田はJPC初の本部帯同アスレチックトレーナーとして参加することとなる。
選手村への入村式が終わると、門田は集まった各団体のリーダーに自己紹介をし、自分がどういうサービスを提供できるかを説明した。知り合いは、障がい者テニス協会の理事のみ。いったい何をしにきたんだ、そんな目で彼を不機嫌に眺めるコーチもいれば、興味深そうに門田の話に耳を傾けてくれる人もいた。
営業時間は午前9時から午後10時まで、しかしそれ以外の時間でも、自分が必要なら遠慮なく声をかけてもらっていい。はりは打てないですが、それ以外はすべて出来ます。
大会期間中、門田は本部内に設けられたマッサージルームで寝泊まりし、結果的にほぼ24時間態勢で選手のケアに対応することとなる。
「さすがに明け方はないかなって思っていましたけど、甘かったですね」
午前9時から競技が開始する選手は、午前4時に門田に身体をほぐしてほしいとやってきた。とんでもなく忙しかったが、それは門田の意図したものでもあった。自分のサービスを提供し、それが役に立つことを実感してもらい、自分一人が奮闘する姿を見てもらえれば、次は必ずスタッフを増やそうという話になるはずだ。この世界には自分よりも優れた能力を持つトレーナーがたくさんいる。そういう人々をパラの世界はもっと活用すべきだろう。
「正直言うと、僕はあくまでも代打だと思っていたんです。広島の田舎者が、その先ずっとパラリンピックの世界に関わっていくなんて、想像もしませんよ。ただ、代打で呼ばれた以上、せめてヒットは打ちたいな、と」
アテネでの2週間は瞬く間に過ぎた。門田はその間、選手村でひたすら選手たちの肉体のケアをし続けた。パルテノン神殿もアゴラも見ず、パラリンピックの競技会場すら覗いたことがなかった。
<次のページへ続く>
アテネでの最終日、残っているのは水泳と陸上競技だけだった。午前中、最後の競技者の肉体を整えたところで、門田の役目は終了する。モンちゃん、おつかれさま、今日はもう休んでいいよ。
門田はよくトレーナールームを活用してくれていた水泳選手たちの試合を見に行くことにした。機会があればサブプールで泳げるかもしれないと、水泳パンツも持参した。
「サブプールの周りには、それぞれの国に割り当てられたスペースがあって、マッサージ用のベッドもおかれていて。ドイツも、アメリカも、ブラジルも、グレートブリテンも、強豪と言われる国はどこも、スタッフが揃いのウエアを着て、これから試合に向かう選手、あるいはレースを終えた選手の身体を整えてあげていたんです」
9月のギリシアの日差しの中、門田は海水パンツ一枚を身につけた姿で、なにか釈然としない気持ちでその光景を眺めていた。彼を見つけた日本選手が、マッサージを依頼する。おれ、今日はオフなんだけどなあ、門田はそう笑いながら、ベッドに横たわった選手の身体にマッサージを始めた。
「向こうは揃いのウエアで、こっちは海パン一枚、銭湯の脱衣所みたいなわけです。さすがに思いましたよ。世界最高の国別対抗戦で、この差はないな、って」
あの体験がターニングポイントになった、と門田は断言する。
帰国後、門田は講演や講習に呼ばれるたび、トレーナー制度の設立を主張した。意外だったのは、トレーナーたちではなく、監督や指導者からアテネでの話を聞かせてくれというリクエストが多かったことだ。
本当にトレーナーって必要なのか?
ええ、本当に必要です。
門田は、かたや揃いのウエア、かたや海パン一枚姿の写真を聴衆に見せながら、行く先々で語り続けた。日本と外国との差はこれぐらいありますよ!集まった人々は彼の台詞に笑い声をあげ、同時により真剣に彼の言葉に耳を傾けてくれるようになった。
<次のページへ続く>
あのアテネから11年が経つ。
結果から言うと、代打のつもりだった門田は、アテネ以後、レギュラーとして障がい者スポーツの世界に定着。トレーナーの存在意義を積極的に説き、且つその組織化に尽力することになる。パラリンピック帯同のトレーナーは北京では2人に増え、ロンドンでは3人に増えた(おかげでロンドンでは、フィジカルトレーニングを指導してきたゴールボール女子チームの優勝をコートサイドで祝うことが出来た)。
2007年にカリキュラムを作成し始め、2008年にスタートさせた障がい者スポーツのための障がい者スポーツトレーナー登録制度も、今年で7期目を迎え、全国でほぼ100人の登録者がいる。
次に整備すべきは競技団体付のトレーナーの拡充と、エリアごとのミーティング制度だ。団体ごとに存在するトレーナー数はたしかに増えてはきているが、今後はよりチームとしてトレーナーが選手サポートに貢献できる環境つくりが必要となる。
「九州、中四国、関西、北陸、東北、と言った具合に、エリアごとにリーダーを作って、地域の中での協力体制を整えたいんです。選手が困っているとき、そのエリアのリーダーに連絡を取れば、近くのトレーナーがなんらかの解決策を示してあげられる、といった具合に」
2020年の東京五輪まではそれぞれの地域で使える予算もある。でもそのあとは、はい、おつかれさまでした、となるかもしれない。ならば、それまでにシステムは作り上げておかなければならない、というのが門田の考えだ。今は追い風が吹いている。その風を利用しない手はない。
来年、第15回パラリンピックはブラジルのリオデジャネイロで開催される。でも、そこにはもう自分の姿はないですよ、と門田は言う。もうすでに若い仲間の一人には、次は君が行くんだ、と伝えている。君の世界で君のネットワークを作れよ、と。
「実際、自分の体力的にも、パラリンピックであの作業をこなすのは現実的じゃないですよね。東京のとき、僕は56歳になっています。午前4時に選手からチョンチョンってつつき起こされて、マッサージしてくださいって言われたら、さすがに、お前、俺の何倍若いんだよ、ってなりますもん」
そして2020年は、できれば観客席から日本選手団の活躍を眺めていたいと、門田は希望している。
「そうなれば、やっとゆっくり見られるじゃないですか、ああパラリンピックってこんなふうにやってんだなあ、って」
<了>
写真・文
ATSUSHI KONDO
1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。