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神様は乗り越えられない試練は与えない


田井 小百合

氏名 田井 小百合
競技名 陸上(障がい者スポーツ)/選手

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神様は乗り越えられない試練は与えない
~障害者として、選手として、母としてのチャレンジ~

2度の試練

「突発性難聴(右耳)を発症したのは、アジア大会(2002年)の代表をかけた日本選手権の約3週間前のことでした。しかも数日前には自己記録を更新して絶好調だったこともあり“なんでこんな大事な時に? なんで私なの?”と周囲の話を理解できないくらい混乱したことを覚えています。結局、日本選手権は5位となりアジア大会出場は夢と消えてしまいました」

この当時、田井小百合選手は23歳、まさに選手として世界のトビラをこじ開けようとしている真っただ中での出来事でした。「目標を達成できなかったこと、病気になったこと、障害を抱えたことが私に与えたダメージは相当なものでした。でも“せっかくここまできたのだから、こんなことに負けたくない”という気持ちがモチベーションとなり、そこからもう一度、世界をめざしたのです。結果的に、世界にたどり着くことはできませんでしたが、2009年11月に引退するまで全力で競技に取り組んで良かったと思います」

ところが引退から数日後、今度は左耳に急性進行性難聴を発症します。「この時は今まで頼りにしてきた左耳も聞こえなくなってしまうかもしれないという、これまで味わったことのない恐怖に襲われました」。しかし、田井選手はこの恐怖と同時に「いよいよ聴覚障害であることを自分自身がしっかり受け容れなければいけない時がきた」とも思ったといいます。そしてデフリンピックと出会い、再び目標を掲げて競技を再開するのですが、この原動力となったのが、高校生の時に経験した試練、そしてその時に恩師からもらったある言葉だといいます。

私を支えた言葉

田井選手が陸上を始めたのは小学5年生の時でした。この頃すでにハードルを専門にしていましたが、あくまでも「楽しむ」レベルで競技に取り組んでいました。ところが中学2年生になるとメキメキと実力をつけ、3年生では100mHの全国チャンピオンになり、これをきっかけに陸上への取り組みが「楽しむ」から「もっと強くなりたい」へと変わったといいます。そしてもう一度日本一を目指し、陸上の強豪校である成田高校(千葉県)に入学。3年生の時には当時のランキングトップとしてインターハイに出場します。

そのインターハイでのこと、田井選手は決勝でトップを走りながら、8台目で引っかかり転倒してしまいます。「レース中に一瞬ですが優勝を意識しました。それが心の緩みとなりこの結果を招いたのだと思います。全国No.1を目の前にしながら逃した喪失感は私を苦しめました。そんな私に当時の恩師が“これは神様がお前に与えた試練だ。試練は乗り越えられる者にしか与えられない”という言葉をかけてくれたのです。その時、自分がどう受け止めたかは覚えていませんが、その後大学に進学しアジア大会を狙えるまで成長できたのも、病気が発症する度にそれを受け入れ前進できたのも、この経験とこの言葉があったからこそだと思います」。さらに田井選手は「病気は私を苦しめました。でもそれが昔の自分より、もっと強い人間に成長させてくれたとも思っています」

多くの夢を背負って

2010年5月に聴覚障害者として競技を再開した田井選手は、ほとんど準備期間のないまま8月の日本聴覚障害者陸上競技選手権に出場し、そこで15秒69という当時の日本ろう記録で優勝します。その後、妊娠がわかりますが「出産は初めてなので、復帰できるのか不安はありましたが、デフリンピックという夢があったので産後も競技を続けていこうと決めました」

そして2011年5月、澄佳ちゃんを無事出産すると、秋のレース出場を目指し産後半月で復帰に向けトレーニングを開始します。「想像していた以上に体力が低下していたことや、妊娠前より体重が6kgほど増えていたことから、最初はウォーキングなどの有酸素運動と筋トレで少しずつ体力を戻していくことから始めました。結局、予定には間に合いませんでしたが、基本的な動作を確認しながらじっくりトレーニングを進めた結果、妊娠前よりも良いコンディションを作ることができました」

また聴覚障害者として、母として競技をしていく中で、自分の気持ちの変化に気付きます。「以前、私にとって陸上は自分の人生を豊かにするためのものでした。それは今も同じですが、結婚し、障害を持ち、出産を経て私を取り巻く環境が大きく変わり、私のチャレンジも夢も大きく広がったのです。例えば、日々のチャレンジは主人や実家の家族など多くの協力が必要になり、私の夢は応援してくれるすべての方にとっても夢なんだと考えるようになりました。そして娘に、デフリンピックで金メダルを獲得する姿をみせたいという夢もできました。さらに、もう一度チャレンジする機会を与えてくれた聴覚障害者陸上への恩返しとして、これまでの経験を生かし若い世代の指導・育成などでその発展に貢献したいと思うようになったのです」

再び試合に出場したのは出産から1年後の2012年5月。その復帰第1戦では追い風参考ながら14秒97と、2010年の15秒69を大幅に短縮。その後は、デフリンピックのA標準14秒76を目標としてレースに出場するも、記録の狙い所で風に恵まれず、A標準に届かないまま7月の世界ろう者陸上選手権を迎えます。レースでは、初のランプ式スタート(ランプの点灯でスタートまでの動作を行う方法)などの不安要素がありながら、14秒75というA標準を上回る好タイムで2位とし銀メダルを獲得。しかしこの時も追い風参考記録となり、続く最後の選考対象レースである8月の日本聴覚障害者陸上競技選手権でもタイムは伸びず、デフリンピック出場は全日本ろうあ連盟の選考結果を待つこととなりました。「本当は日本選手権で決めておきたかったのですが、また試練を与えられたんですね。でもメダル獲得などやれることはやったので、後は良い連絡がくることを祈るのみです」。
その後も10月の大会で14秒96の日本ろう新記録を更新するなど活躍を続ける田井選手。障害者として、選手として、母としてのチャレンジは続きます。