スポーツチャレンジ賞

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臼井二美男

【コラム】臼井二美男~僕たちの知らない走ることの意味

OPINION
FUMIO USUI

僕たちの知らない走ることの意味

近藤篤 = 写真・文
Text&Photograph by Atsushi Kondo

今年の5月、東京都北区にある東京都障害者総合スポーツセンターに、ヘルスエンジェルスの練習風景を見学に行った。

ヘルスエンジェルスは、1990年代、義肢装具士になってまだ間もなかった臼井さんが、仲間数人と立ち上げた障害者のためのスポーツクラブだ。立ち上げ当時は名前もなかったし、臼井さんも含めて5人くらいしか集まらなかった。そこから一人、また一人、今では総勢200名ぐらいの団体になっている。

トレーニングは午後2時から、センターの裏手にある古ぼけたトラックの上で始まった。最初は全員で準備体操をやり、一緒に歩き、レクリエーション的なゲームを行う。

上級者の人たちは仲間と談笑しながら、トラックの上を気持ちよさそうに駆け抜けてゆく。初心者の人たちはまだうまく動かせない義足と、もどかしそうにたたかっている。

右と左の足を交互に出して走るという行為は、それほど簡単なことではないのです。僕は表彰式のスピーチで臼井さんが口にした言葉をふと思い出す。

たしかに僕たちは、パラリンピックの映像を見て義足のランナーがトラックの上を疾走する姿に感動するけれど、走ることそのものの難しさについて思いを馳せることはあまりないかもしれない。

まだヘルスエンジェルスの練習に参加し始めて間もない若い男性が、ランニングの練習中に脚をもつれさせ、アンツーカーの上に激しく転倒する。大丈夫?とチームメイトは声をかけるが、誰も手を貸して助け起こそうとはしない。

ヘルスエンジェルスと臼井さんの姿勢は終始一貫している。優しく、そして厳しく、だ。

だって、走っていて転んだら、自分で起き上がるのが普通でしょ。それは義足をつけていても同じです。みんなね、最初はなにかしてもらうことを期待して、ここにやってくるんです。でも、しばらく経つと、誰かに何かをしてあげようとする人間に変わっていきます。

若い人、特にまだ未成年の子供には、何もかも人からやってもらえることに慣れ切っている子も多い。ヘルスエンジェルスにやって来るそんな子供に、臼井さんはひとつの約束を提案する。

義足をつけて、歩けるようになったら、このオレをおんぶするって約束してくれないか?

子供たちは臼井さんをおんぶするためにリハビリに励み、やがて彼を背負えるだけの足腰の強さを身につける。すると、臼井さんはその子にこう言う。

じゃあ、次はちょっとお父さんをおんぶしてみようか。

子供は照れながら、お父さんを背中に負う。脚を失った子供とお父さんの間に新しい人間関係が生まれるその瞬間を、臼井さんは、何かがうまく流れ始める瞬間、と表現する。

開始から一時間ほど経つと、ヘルスエンジェルスの全体トレーニングは終了し、あとは個々人が自分のレベルにあった内容をこなしてゆく。その間、臼井さんはあちらの義足を調整し、こちらの義足の相談に乗り、見学中の若い女の子の車椅子を押してメンバーに紹介して回る。誰もが笑顔で彼女に話しかけ、彼女も自然な笑顔で返事をかえす。

ここに集まったメンバーの中には、臼井さんの手によってまったく合わない義足の苦しみから解放された人がたくさんいる。あわない義足がどれだけ辛いか、その痛みをヘルスエンジェルスの選手会長をつとめる水谷さんはこう説明してくれる。

義足と自分の肉体がくっつく部分、これをソケットというんですが、例えて言うと「コップの中に自分の拳をぎゅーぎゅーに押し込んでいるという感じ」なんですね。だから、このソケットの部分があわないと、本来ならその人の助けとなるはずの義足は、強烈な痛みをもたらすだけの道具となってしまうんです。

20代半ばで鉄道事故にあって右足を失い、合わない義足で苦しんでいた女性メンバーの佐藤さんも、臼井さんとの出会いで違う世界へと歩み始めることのできた一人だ。

臼井さんに出会うまで、私も義足のありがたさを理解できていない人間の一人だったんです。なんでこんなに痛くて辛いものを身につけてなきゃいけないんだろう、こんなのいらない!って。

病院のベッドで悶々とした日々を過ごしていた彼女は、ある日テレビで臼井さんのことを知り(ミニスカートをはける義足という内容だった)、すぐさま彼に連絡を入れた。

臼井さんとの出会いは、単に義足のことだけではないんです。以前の私は自分のことが嫌いで、自信もありませんでした。でも臼井さんに出会って、ヘルスエンジェルスに出会ってから、自分の性格は以前とは比べ物にならないくらいポジティブになりました。とにかくなんでもやってみよう、って。今では、そう思える自分のことも好きになれるようになりました。

佐藤さんはつい最近出版された写真集「切断ビーナス」にもモデルとして登場している。

二時間後、ヘルスエンジェルスの練習は終わり、メンバーの人たちは三々五々、会場を後にしてゆく。臼井さんはトレーニング道具をまとめ、入れ替わり立ち代わり彼のそばにやってくる人と会話を交わしながら、歩き去ってゆく。

彼の携帯には何百人という患者さんの電話番号が登録されていて、望めばいつでも臼井さんに電話をかけてこられるようにしている。義足を作るということは、その人の心をケアすることでもある。

ウィークデーの昼間は勤務先の鉄道弘済会で義肢装具士として働き、時間内に終わらない作業は勤務時間が終わった後に行い、アスリート用の義足も開発し、調整し、そして一人でも多くの障害者が再び走れるようになるための機会と場所を提供し、且つそのネットワークづくりにも尽力する。そしてそんな多忙な時間の中でも、いつも静かな眼差しと、細やかな心配りを失わない。

この世界にはこんな凄い人がいるんだ。今回の取材を終えて、それが僕の正直な感想である。

写真・文

近藤篤

ATSUSHI KONDO

1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。



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