スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

INTERVIEW
MASANORI TAKAYA × TOMOKO HAGIWARA

【対談】髙谷正哲×萩原智子

日本のスポーツを一段階上のステージに

エキスパートが揃うことでチームが完成される

萩原オリンピック・パラリンピックを東京に持ってくるっていうお仕事ができるのは、本当に一握りの人たちですよね。

髙谷会社を辞めたのが2006年の春で、2016年の招致委員会での仕事を得たのが2007年の秋です。そこから2年間、2016年の招致活動に関わったわけですが、今思うと当時は何もわかっていませんでした。海外のアドバイザーに言われたことを右から左にやるのが手一杯、自分の思い通りに仕事ができたわけではありません。それに比べると、2020年の招致活動は、明確な意思を持って、絶対にこういうふうにやれば勝てる、と自信もありました。

萩原それは失敗から学んだ経験ですよね。招致委員会の中でも2016年を経験されたのは髙谷さんだけだったと聞いたのですが…。

髙谷あとは事業部の部長と(招致委員会設立当時の)国際部の部長、このお二方です。戦略広報部は僕だけですね。

萩原一度経験しているって、すごい強みですよね。だからこそ、アドバイスをくださる海外の方に対しても、「こうしたい」というふうに言えるようになったとか。

髙谷2016年のときのコミュニケーションのアドバイザーはオールラウンダー、なんでもできる人でした。スピーチも書け、オリンピックの番記者さん、海外にすごく影響力のある記者さんをよく知っていて、IOCのことも熟知している。どの分野でも全部90点くらい取れる、優秀なコンサルタントでした。たしかに2016年の招致委員会にとっては、彼みたいな人が必要でした。でも、2020年の招致活動では、メディア対応をするのは絶対に戦略広報部のスタッフがやるべきだと、最初から思っていました。ここを手伝う人間は、わざわざお金をかけて外部から取る必要はない。一番必要なのは、強いメッセージやプレゼンテーションを作れるコミュニケーション・スペシャリスト。あとは、必ず放射能に対する不安、地震や津波に対する不安という話は出てくると思ったので、PR戦略、広報戦略に長けているエキスパート。様々なエキスパートが揃うことでチームが完成されるというイメージがあったんです。そして、そういう僕たちの意見にバリューを感じてくれた上司の存在、本当に上手くいろんなことがかみ合って、2020年の招致があったんです。個人的には、信じたことを最後までやり通せました。今は組織委員会の仕事をしていますが、招致委員会とはタイプが違う仕事になるので、この先あそこまでのマインドと使命感を持って仕事のことだけを考えて生きていく時間が来るかな、っていう気がして。

萩原要するに、バーンアウトしてる状態ですか?(笑)

髙谷組織委員会の仕事は、時が来れば終わります。2020年のオリンピック・パラリンピックも、たぶんこの日本のいろんな組織力とか、諸々の基盤があれば、本当に素晴らしい大会になるとは思うんです。であるがゆえに、個人が、具体的にどこにそれぞれのゴールを設定するのかって、ちょっと設定しづらいんです。例えば僕らだと、広報という仕事ではどこがゴールなのかって。

物事が成功していくときは、いろんな成功の折り重なりがある

萩原ちなみに髙谷さんはどんなゴールを目指しているんですか? 

髙谷まず組織委員会自体が世の中からもすごく尊敬されるような組織に育っていくこと。そして、大会が大成功に終わったとき、そこに広報の優れた働きがあったから、みんなが大成功というレベルまで到達できたんだ、というような実感が得られるものにしたいです。東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会という注目される組織の中で、広報の仕事がどういうふうに役立ち、どういうふうに大会の大成功に貢献したか。その事実はその先の世の中、会社や団体において、広報はこうあるべき、という新しいランドマークを設定できると思うんです。今の日本において、広報というものは組織の中であまり大事にされていない気がします。そこを「広報先進国・日本」って言われるくらい、この仕事が認められるようになったらいいなと。

萩原私自身2016年と2020年の招致活動に少しだけですけど関わらせていただいて、広報のイメージはびっくりするくらい変わりましたよ。たとえば小学校などに行くと、2016年の招致活動のときは、いくら子供たちにオリンピックのことを説明しても、みんな「ポカーン」としている状態でした。でも、2020年の招致活動のときは、オリンピックの発祥や五輪マークのことを、みんなよく知っていました。広報活動を通じて、学校サイドも熱心に教育をし、オリンピック・パラリンピックが来ることの意義やすごさが子供たちにしっかり伝わってるんだなって。それに加え、ロンドン五輪のあとの銀座のパレードもすごかったですね!

髙谷いや、あのパレード自体は我々よりもっと上のレベルで、もっと強い意志を持った人が、「あれをやるべきだ」って決めたんです。ただ、その決定をどういうふうに外に伝えていくか、というのは僕らの仕事でした。あと、萩原さんが、世の中の人に伝わってるなって感じられた部分も、僕らが多少貢献した部分はあると思います。

萩原すごく謙虚な方ですね(笑)。

髙谷今回の招致活動では、最初からみんなが魔法の言葉のように「オールジャパン」と口にしていました。この言葉は非常に大きかったです。そして、これはいつも戦略広報部内で、先輩や上司の方々が話題にしていたのですが、ロンドン五輪での選手の活躍がなかったら、あそこまで大きなうねりにはなってなかったんじゃないでしょうか。つまり、アスリートが活躍し、選手が常に真ん中にいたからこそ、我々の仕事もそこに存在することができたんです。物事が成功していくときは、いろんな成功の折り重なりがあり、我々がこうだったからこうなった、というようなシンプルなものではない、という気持ちは常に持っています。

萩原確かにそうでした。「オールジャパン」、縦だけではなく横にもつながろうということを、いろいろなところで耳にしました。私はそういう話を聞くたび、絶対に2016年を経験している誰かが裏でがんばってくれている、って感覚があったんです。だから今日は髙谷さんに会えてすごい!って嬉しいんです(笑)。

髙谷萩原さんにそう言われるとなんだか恐縮するしかないですけど…。2016年の招致活動って誰にとっても初めての仕事だったので、どういう絵作りをすればいいか、ずっと手探りのまま最後まで行ってしまったと思うんです。でもそれがあったから、2020年の招致活動のときは最後どういう映像が必要か、どういう写真素材を見せつけなきゃいけないかって、それぞれの場面である程度イメージができました。そこに「オールジャパン」という頼りになる言葉がありましたからね。

<次のページへ続く>



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