スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

TOMOHIRO NOGUCHI × TOMOKO HAGIWARA

日本にはまだまだ強くなるためにできることがある

萩原東京オリンピック・パラリンピックについてはどうお考えですか?私は、地元開催ということで、選手だけではなく指導者にも相当なプレッシャーがかかると思っています。

野口仲間のコーチとも、我々も優秀な選手を抱えている指導者を支える番になってきたね、なんて話はよくします。

萩原日本には金メダリストを育てた監督、コーチがたくさんいらっしゃいます。そういう方々の経験を伝える機会や場所は、とても大事ですよね。

野口大事だと思います。現場の監督やコーチにとってメンター的な役割を果たす、とでも言うんでしょうか。

萩原指導者の方々も、ものすごく重いものを背負って大会に挑まれている。ただ水泳を教えるだけでなく、選手のメンタルの部分も完璧に仕上げてあげなければならない。ただでさえ、ご自身のメンタルがかなり追い込まれているにもかかわらず、です。私は、今度の東京オリンピック・パラリンピックで、もし地元開催ということで許されるのであれば、代表チームのスタッフには入らなくとも、そういう経験を積まれてきた先生方に、選手ではなく、監督やコーチのメンタルケアの役割を担って欲しいのです。アメリカやオーストラリアでは、メンタルトレーナーも必ずチームに入っていますよね。

野口いいアイデアだと思います。実際にプールサイドまでは無理にしても、代々の日本チーム監督を務めてこられた方々とか、そういう方々がスタンドにいるだけで、環境はかなり変わるでしょうね。

萩原絶対メダルをとらせなきゃいけない、そう考えているコーチも相当追い込まれてしまいますよね。リオ大会の時、野口先生にもそういう支えとなる存在の方はいらっしゃったのですか?

野口はい。木村君のサポートとしてマネージャーの後藤(野口智博氏の妻、後藤桂子氏。編集部注)が来ていましたし、トレーナーの小沢邦彦さんにも帯同してもらいました。後藤は選手村の近くに居を構えて、食が細くなった木村君に、JSCの担当管理栄養士さんと逐一相談しながら、和菓子などの補食を出してくれました。また、大会期間中、現場が窮地にいてコメントが出せなかった時に、取材記者たちと直接やりとりしながら極めて適切にメディア対応のサポートをしてくれたのは、本当に助かりました。代表スタッフは皆そういうことに不慣れだったので、彼女が健常者アスリートをサポートしていたときの経験が、ここでもかなり役立ちました。体調面では、選手だった人ならわかると思うんですが、選手村に入る前に勝負のほぼ80%は決まっています。小沢さんは北島康介といった金メダリストをずっとケアしてきた名トレーナーで、良い時も悪い時も、様々な事例を経験しています。今回何度か木村君が体調を崩した時でも、適切にケアしてくれて、練習も「今の状態なら、ギリギリまで追い込んでも大丈夫です。私が(疲労を)抜きますんで」と言ってくれました。事前合宿から正直難しい局面も沢山ありましたけど、おかげで最後の微細な調整ができました。二人とも飲み相手にもなってくれましたし、つまみの買い出しにも行ってくれましたしね、笑。そばにいてくれて本当に心強かったです。

萩原最後の調整は繊細ですよね。崩れるのは簡単、気持ち一つで変わってしまいます。お二人がいなかったら、かなり心細かったでしょうね。

野口東京オリンピック・パラリンピックのためにできること、この三年間で日本にはまだまだ強くなるためにできる上積みはあると思うんです。これまでに日本水泳界が積み上げてきた知識、情報、人材などを考えれば、僕は次の東京は案外大丈夫だろうって、そういう面ではとても楽観的に捉えています。

萩原健常者の世界で活躍された方が、パラの世界でも活躍したケースは、野口先生が初めてだと思います。先駆者とでもいうんでしょうか、素直にすごい!と改めて尊敬しています。オリンピックとパラリンピックを繋げられる大切な存在ですね。本日は貴重なお時間をいただいて、本当にありがとうございました。

<了>

写真=近藤 篤 Photograph by Atsushi Kondo

インタビュアー

萩原智子

TOMOKO HAGIWARA

(はぎわらともこ、1980年4月13日)中学3年生時に、海外遠征カナダ選手権200m背泳ぎで、当時、日本歴代2位となる日本中学新記録樹立。高校インターハイでは、200m背泳ぎで、3連覇達成。同年アジア競技大会では、個人、リレー種目で、3個の金メダルを獲得。2000年シドニー五輪、200m背泳ぎ4位、200m個人メドレー8位入賞。2002年日本選手権では、100m、200m自由形、200m背泳ぎ、200m個人メドレーで史上初の4冠達成。「ハギトモ」の愛称で親しまれ、2004年現役引退。5年の歳月を経て、2009年現役復帰宣言。復帰レースとなった新潟国民体育大会では大会新記録で優勝。翌年2010年には、30歳にして日本代表に返り咲いた。同年、ワールドカップ東京大会で50m自由形、100m個人メドレーで、短水路日本新記録を樹立。順調な仕上がりを見せていた矢先、五輪前年である2011年4月に、子宮内膜症・卵巣のう腫と診断され、手術。手術後は精力的にリハビリに励み、レース復帰。2012年2月のJAPAN OPENでは、50m自由形で短水路日本記録を樹立。4月に行われたロンドン五輪代表選考会ではレベルが上がってきた女子自由形で、堂々と決勝に残り、意地を見せた。2013年6月、日本水泳連盟理事に就任。現在はテレビ出演や水泳教室、講演活動など多岐に渡る活動を行っている。また、自ら現場に行って取材を行い、ライターとしても活躍中である。



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