スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

野口智博
FOCUS
TOMOHIRO NOGUCHI
野口智博の足跡

二人で歩んだメダルへの道

『競い合うメンタル』

練習のスタートは毎朝6時。それが終わると野口は学内での仕事に専念し、午後にはまた木村と合流する。健常者スポーツの世界でもまだ普及していなかったコンディション管理のための唾液採取をし、自らタッピング棒を手にして何十往復もプールサイドを行き来した。マンツーマン練習の頻度は週10回に増やされた。

しかし一番大変だったのはメンタル面だった、と当時を振り返って野口は言う。
その年、つまり2015年の秋、野口は未だ水泳を趣味の延長線上のようにしか捉えない木村敬一と、真剣な話をした。

「内定ってどういう意味か分かるか?まずこの内定っていう制度がJPC理事会や障がい者水連理事会を通るまでに、どれだけの人がどれだけ熟考と論議を重ね、どれだけ大変な思いをして通したのか、っていう話をしました。その次に、制度を通すということは誰かが内定者にならなきゃいけない、そしてその制度が持続するために、内定者が成功しなくちゃいけないんだよ、と」

昔のようにやっていたほうが楽しかったな、時々木村はそんな風に愚痴ることもあった。そんな時野口は、フェルプスや萩野公介はこういうことを楽しんでるんだよ、と答えた。こういうのが楽しくならないとトップアスリートにはなれないぞ。しかしなかなか本人には伝わらなかった。

「彼らパラアスリートは、通常のアスリートであれば必ず、激しい生存競争の中で踏んでいく段階を、いくつかすっ飛ばして日本代表まで上がってこれています。木村敬一という選手は、一人の人間としてはとても成熟しているんですが、そのせいもあって、アスリートとしてはまだ成熟しきっていない状態でした。それを一つ一つ教え込んでいくのは私にとっても大変でしたし、彼にとっても苦痛だったんじゃないかと思います。「トップアスリートだったら、普通これくらいのことはするよ」ってことが、なかなか確立されていなかったり、生活習慣のなかに取り込めなかったり。まあ過渡期にある木村たちは致し方ないとしても、これから出てくる障がい者アスリートに関しては、その『競い合うメンタル』の部分を、どう教育してゆくか。東京が近づいている以上、論議を重ねてしっかりと戦略をたててなんて、そんな時間はありません。歩きながらしっかりと考えて論議し、実践していくべきではないでしょうか。いちアスリートとして競い合うという点では、今のパラリンピックはもう健常者のそれと変わらないわけですから」

1年後、2016年7月、リオデジャネイロの地で木村敬一は銀メダルと銅メダルをそれぞれ二個ずつ獲得する。大会に入ってから急にコンディションを崩してしまったこともあって、念願の金メダルを手に入れることはできなかった。

「しかし、強化やそれに関わる生活介助などの様々なサポートや、この4年間の「デリバレート・プラクティス」がもしなかったら…、まず自由形の2つのメダルは確実になかったですし、銀メダルだった100mバタフライでは、あの体調なら4着もあり得ました。2015年での判断がもう少し早ければ、木村はバーンアウトしていたかもしれませんが、逆にもし遅ければ…そう思うとぞっとしますね」

健常のトップアスリートを指導する名コーチと全盲のトップスイマーが二人でタッグを組んで歩んだ時間は、最終的には「コンディションの崩れ」という壁があったにせよ、日頃の鍛錬が土台として残っていたことでギリギリの線で踏みとどまり、チーム獲得メダルの過半数に達した4個のメダルを、日本チームにもたらした。

「振返ると、たまたまいろいろな偶然が重なったに過ぎない出来事ばかりです。でも、それら一つ一つの出来事が、早過ぎても遅過ぎても、きっとこれ以上の成績はなかったでしょう、そう考えると、全ては「必然」だったのかもしれませんね。

<了>

写真・文

近藤篤

ATSUSHI KONDO

1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。



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