スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

野口智博
FOCUS
TOMOHIRO NOGUCHI
野口智博の足跡

二人で歩んだメダルへの道

パラリンピアン、木村敬一の登場

野口が日本大学での教職について7年が過ぎた頃、一人の全盲スイマーが日本大学に入学する。彼の名は木村敬一といった。

「2009年2月の終わり、寺西先生(筑波大学附属視覚特別支援学校教諭、寺西真人氏)からいきなり電話がかかってきたんです。実はこういう選手がいて、今度一般受験で日本大学の教育学科に合格した。ロンドンパラリンピックを目指しているのだけれど、そちらの水泳部に入れてもらうことは可能だろうか、というお話でした」

当時、水泳部のアドバイザー的立場にいた野口は、監督、コーチ陣に連絡をとり、この案件を協議してもらった。しかし最終的に返ってきた返事は、木村選手の場合は“練習管理が難しい"というものだった。いくら速いとは言え、水泳部には100メートルで50秒を切る選手が何人もいた。その世界に100mを1分0秒で泳ぐ選手が入ってきても、実際にやれることはないし、しかも弱視ならともかく全盲では、練習の安全管理が厳しいのではないか、という説明だった。

野口は代案として、自身が顧問を務めていた水泳サークルを紹介した。サークルとはいえ、元々はあの古橋廣之進氏が始めた長い伝統のある、50メートルを24秒で泳ぐ選手が何名かいるような、かなり本格的な水泳クラブだった。サークルのOB会長にも話をし、現役の学生幹部たちに対しても、こういう子が入ってくるけどお前たちの間で面倒を見られるか、と何度も確認をとった。

「学生たちは、自分たちが面倒を見ます、と言ってくれましたし、OB会からも、そんな素晴らしい選手なら是非引き受けてください、という連絡をいただきました」

話はとても円満に運んでいった。

このサークルを活動のベースとし、木村敬一は3年後の2012年、ロンドンで開催されたパラリンピックを舞台に、100m平泳ぎと100mバタフライでそれぞれ銀、銅メダルを獲得する。

二人の関係が密になるのは、そのロンドンの数ヶ月後のことだ。

時代の流れが大きく変わり始めた

「ロンドンが終わってしばらくして、彼が大学院に行くという話を耳にしました。その時、泳ぐほうはどうするの?みたいなことを訊ねたんです」
すると、それを野口先生にお願いできませんか、と逆に木村の方から切り出した。野口はその理由を深くは訊ねはしなかったが、木村の中で、次のリオは金しかない、ということは明白だった。

「最初は毎朝つきっきり、というようなものではなかったんです。私が直接全部見るっていうわけではなく、まず一般的な選手がやっているように、毎日泳いでみようかとか、サークルの練習がない時に私がメニューを組んでみるとか、ウエイトを週に2回くらいやったりとか、その程度でしたかね」

時代の流れが大きく変わり始めたのは、2014年から2015年あたりからだろうか。障害者スポーツ事業が厚生労働省から文部科学省に移管され、オリパラが合同表記になり、予想だにしていなかったことが次々と起こり始めた。

「2015年の世界選手権で木村が二種目優勝してリオの内定を取ったんですが、そこからは今どきの若い連中風に言うと、これはガチなやつだ、っていう感じになってきました。基本的な練習はそれほど変わりませんが、練習頻度は週10回に増やしましたし、食事管理やコンディション管理についても相当の責任感を持ってやっていかなければならない、と感じていました」

<次のページへ続く>



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