スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

野口智博
FOCUS
TOMOHIRO NOGUCHI
野口智博の足跡

二人で歩んだメダルへの道

セントラルスポーツ、学びの日々、そして再び日大へ。

日本大学を卒業後、野口はスポーツクラブを全国展開するセントラルスポーツ株式会社に就職する。社会人選手として水泳を続ける、それが彼の選択だった。ユニバーシアードザグレブ大会の合宿で、後に鈴木大地(現スポーツ庁長官)に金メダルを取らせた、鈴木陽二コーチから直接の指導を仰ぐ機会を得て、「まだ水泳界でやっていないことがある」と感じたからだ。ゆくゆくは指導者になることを考えてはいたものの、このままオリンピックに行けないでキャリアを終えてしまうには、まだ踏ん切りがつかないでいた。

「結局四年後のバルセロナには行けなかったですが、社会人スイマーとして、(90年)北京アジア大会、(89年)パンパシフィック東京大会、(91年)パース世界選手権には日本チームの主将としても参加させてもらえました。当時はまだ社会人として現役スイマーを続ける人は少なかった。あの頃に自分が残した実績が、現在では当たり前になっていることに少しは役立っているかもしれません。加えて私の入社と同時に、会社に『スポーツ奨励社員』という規定ができ、後に森田智己のような選手が、その制度によって大学卒業後も現役を続け、五輪でメダルを取ってくれたのは、本当に誇らしいです」

現役生活に終止符を打って三年、野口は7年間勤めたセントラルスポーツを退社し、水泳部のコーチとして母校日大に復帰する。しかしその三年後、彼は再び日大を離れ、日本体育大学大学院トレーニング科学系へ通い始める。

日大水泳部での一年目はうまくいったものの、2年目、3年目になるとチームマネジメントの部分で行き詰ってしまった。それが再び学びの場に身を置く理由となった。野口は野口なりに、セントラル時代も含めて勉強を積み重ねてきたつもりだった。しかしよくよく考えてみると、それはまだまだ場当たり的な勉強でしかなかった。

日体大大学院での研究を終え、他大学での体育非常勤講師、あるいは大学院卒業後に立ち上げた選手の強化サポート会社の仕事をこなしていた野口のところに、日本大学が水泳部の出身で尚且つ大学院を出た人間を探している、と言う知らせが届いたのは、2000年のことだ。

野口は言われるがままに大学に願書を提出し、2001年に非常勤講師として、当時定年延長中であった古橋廣之進名誉教授と共に勤務し、諸々の業務を引き継いだ後、翌2002年、体育学科の専任講師として日本大学へ3度目の復帰を果たす。今回はまず初めに水泳部ありき、ではなく、国内最大規模の大学という、巨大な組織の一スタッフとしてのスタートだった。実際に水泳以外にも一般教養も含めて何コマもの授業を受け持ち、学内での委員会業務や、学会運営など、様々な雑用をこなす、慌ただしい日々の始まりだった。

<次のページへ続く>



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