スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE PRIZE SPECIAL CONTENTS

中島正太

【コラム】

OPINION
SHOTA NAKAJIMA

史上最大のアップセット、その舞台裏にいた男

近藤篤 = 写真・文
Text&Photograph by Atsushi Kondo

ラグビーアナリスト、中島正太さんを秩父宮ラグビー場に隣接する日本ラグビーフットボール協会の一室に訪ねて話を伺ったのは、今年2016年の5月下旬のことだった。薄曇りの空からは時おり細い雨が落ちてきて、ラグビー場のグラウンド上では女子15人制ラグビー日本代表チームが香港戦に向けて最終調整に励んでいた。

指定された時間より少し前に、中島さんは会議室に姿を現した。元ラガーマンらしいがっちりとした肩まわりは、ブルーのワイシャツの上からも見て取れる。

一つ一つの質問に、じっくりと考え、正確な言葉で答えを返す。優しく、丁寧で、もの静か、それでいてどこか譲れないところは絶対に譲らないという頑なさも感じさせる。

毎年、ヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞受賞者の取材を通じて強く感じることなのだが、人生というのは不思議なものだ。

中島さんは5歳の時にラグビーを始め(その頃は野球が好きだった)、名門熊谷工業高校を経て、筑波大学ラグビー部のスタンドオフとして活躍した。卒業後は教師となってラグビー指導者の道を進むはずだったが、大学卒業を目前に控えて、ラグビー部の監督から「ラグビーアナリスト」というもう一つの選択肢を差し出される。その選択肢を選んだことで、彼の人生は日本対南アフリカという世紀の番狂わせの場へと進路変更することとなる。

2015年9月19日、あの夜のことは今でもよく覚えている。

第8回ラグビーワールドカップ、プールB初戦、日本対南アフリカ。僕は深夜過ぎ、一人テレビの前に腰掛けて、目の前に映し出されるライブ映像に文字通り拳を握りしめて見入っていた。

突き放そうとする南アフリカ、必死にしがみつく日本。

試合前はもちろん、ジャパンが予想をはるかに超えて南アフリカに食らいついてゆく展開となった前半が終了しても、僕は世界中のほとんどのラグビーファン同様、まさか『そんなこと』が起こるだろうとは夢にも思っていなかった。こうやって善戦して、でも最後は負けてしまう、それが日本のラグビーなんだよ。

過去のワールドカップにおける通算戦績は南アフリカが25勝4敗(内、優勝2回)、一方の日本は1勝21敗2分け(内、1995年にはニュージーランド相手に決勝トーナメントに145対17での惨敗、もちろん決勝トーナメントに駒を進めたことは一度もない)。どんなにあがいても、もがいても、絶対に泳ぎきれない濁流が二国の間には流れている、と信じ込んでいた。

僕はとんでもない勘違いをしていた。

試合終了間際、日本は相手の反則から得たラストワンプレーのチャンスで、キックではなくスクラムを選択する。そしてそこから数分間にわたって一度のミスもなく攻め続け、南アフリカチームのディフェンスライン右隅にほんの数秒間だけ開いたスペースをついに突き破った。

34対32。ブライトンコミュニティスタジアムのスタンドは大歓声に包まれ、スポーツ史上最大の番狂わせに世界中のラグビーファンは狂喜する。

試合終了から数分後、もう10年ほど連絡を取っていなかったアルゼンチン人の友人から、短いメールが届いていた。

おめでとう。すごい試合だったな!こんな試合、見たことないし、たぶんこれからも見ることないだろう。

奇跡。いや、奇跡なんて書くのはものすごく失礼な話だ。エディ・ジョーンズHC率いる日本代表は、世界ランキング3位の南アフリカを倒すに必要かつ十分なトレーニングと準備を、それまでの四年間で積み重ねていたのだ。

年間120日にわたる集中合宿、早朝から始まる四部練習。選手もそしてスタッフも、彼らの肉体と精神は極限まで追い込まれた。ほんのすこしの逡巡も、ほんのわずかな過ちも許されない。エディはチーム内で起こる全てのことを観察し、例えば朝食の席でチーム支給の靴下と異なったものを履いている選手に向かって、そんなことで君は世界を相手に勝てると思っているのか、と激怒した。ジャパンウェイ、日本人だからこそできることで勝負する、オーストラリア人のヘッドコーチは日本らしさを極めることで世界に立ち向かおうとしたが、当の日本人にとって時にそれは狂気に近い方法論にも思えた。

元主将の廣瀬俊朗さんは言う、もう一度やれって言われても、まあ絶対に無理でしょうね、と。

チームマネージャーだった大村武則さんは付け加える、イングランドに向かう直前の一ヶ月は、風船の前に針を近づけた状態でいつ割れてもおかしくない、そんな緊張感の中で過ごしていましたよ、と。

選手だけではない。コーチ陣、スタッフ、全ての関係者が極限の中で仕事をこなした。もちろん中島さんもその一人だ。

「前日の夜、ものすごい剣幕でトレーニングに関して怒鳴られたことについて、ほとんど寝ないで朝まで考えてトレーニングメニューを提出する。すると、その朝のミーティングで、昨日言ったことはキャンセルだ、となるんです。そして、目の前のホワイトボードに今日のメニューを書き始め、これについて30分以内にディスカッションするから考えろ、と」

感情を交えたらアウト、だから中島さんは、褒められても、叱られても、いつも同じ精神状態で淡々とやりこなしていくことにした。

「いちいち反応してられないですよ。何時間もかけて用意した資料をチラッと見ただけでゴミ箱に捨てられても、ハイそうですか、って感じです」

二度目は無理、ほとんどの関係者は声を揃えてそう言うが、中島さんは少し違う。もう一度やれと言われればやれなくはないが、次はまったく逆の方法論で同じように勝利を得る、そんな監督さんと仕事をしてみたい。

日本代表での4年間をW杯最後の試合で終えると、その一週間後、中島さんはリオ五輪に向けて活動中の男子7人制ラグビー日本代表チームへと仕事の場を移す。

7月、千葉県成田市で二度目の取材に伺った際、スタッフの数の少なさもあって中島さんも自らピッチに立ち、選手たちのすぐそばでともに身体を動かしながら、戦術的な動きの練習をこなしていた。ただ情報や映像を提供するだけでなく、もっと積極的に関わっていけるアナリストをやってみたい、そういえば中島さんはそんな思いも口にしていた。

「今やっていることは、エディのラグビーよりもさらに難しいレベルかもしれませんね。うまくいけば、きっとリオでもサプライズは起こせるはずです」

中島さんの予言は当たった。男子7人制日本代表は、リオデジャネイロでの予選第1戦、南アフリカと並ぶラグビー界の巨人、ニュージーランド相手にこれまた世界が驚くアップセットを演じてみせ、惜しくも準決勝でフィジーに敗れはしたが、見事4位という結果を残すことになる。

わずか一年の間に、南アフリカとニュージーランドを打ち負かしたアナリスト。そんな大げさな言い方をすると中島さんは照れるだろうか。

3年後、次のラグビーワールドカップは日本で開催される。今はまだ全て白紙、ただ目の前にあることに全力で取り組むだけです、と中島さんは静かに語る。

3年後、中島さんは再びアナリストとしてジャパンと共に戦っているのだろうか。もし戦っているとすれば、今度はどんな力をチームにもたらすのだろうか。

大いに期待したい。

写真・文

近藤篤

ATSUSHI KONDO

1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。



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