スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

MIYUKI KANO × YOKO ZETTERLUND

続けていく努力を続けていかないと、続かない。

ゼッターランドちょうど私がデフに少し携わらせてもらいはじめた時というのは、日本チームが優勝して、選手が入れ替わる時期、世代交代の時期だったんです。あの頃は外国だとウクライナがすごく強かったのかな。

狩野そうですね、ウクライナ、そしてロシアです。彼女たちの国では、オリ、パラ、デフ、しっかりと同等の感じで分かれていて、それぞれ結果を出せば国からも報奨金が出る、生活が保証される、というセミプロのようなシステムが出来上がっていました。

ゼッターランド当時はまだパラリンピック、デフリンピックはなかなかスポーツとしてのサポートは受けられない状況でしたよね。管轄は厚労省で、あくまでも福祉とか障害といった枠組みの中でのスポーツ活動でした。そういう状況の中で、金メダルを取ったというニュースを聞いて、大変なことにチャレンジしているんだな、と強く思った記憶があります。しかも4大会ぶりの金メダルでしょ!勝つって、本当に大変なことなんですよね、笑。タイミング、運、いろんなものが揃わないと金メダルってないと思うんです。

狩野私は7年やってきましたけれど、元々その前から日本のデフバレーの実力は低くなかったと思います。世界のトップ5に入れるだけの力はいつもありました。だからそんなに私がどうってことはないと思うんです。私が貢献できたことが一つあるとしたら、私のような人間が監督をやっていることで、こうやって皆様に取り上げていただいたりとか、バレー関係者の方々がより多く関わってくれたりとか、そういうことはあるかもしれません。その結果、選手の勧誘も以前に比べればやりやすくなったというのはあるかもしれません、こういう人間が監督をやっているので、一緒に頑張ってみませんか?って。そういう面で自分が役に立てているなら、それはそれで嬉しいことです。

ゼッターランド一度メダルを取った選手をもう一度バレーに向かせるのは大変じゃないですか?

狩野はい、そうなんです!

ゼッターランド連覇と一言で言っても・・・、2年続けての連覇だって大変なのに、一度金を取ってからそこからまた4年後にもう一度世界一になるって、本当に大変なことだと思います。奇跡に近い感じですよね。

狩野全く同じ選手で連覇するのは難しいですよね。選手自体は二極化していて、学生の人たちは次も頑張りますって言ってくれるんですけど、今の主力の人たちは・・・。日本代表ってその世界の一番の人たちが集まってくれないと成り立たないじゃないですか。

ゼッターランドまあでもやっぱり、それでも2連覇に向けてしっかり歩んでいってほしいです、笑。それがどのくらい大変なことかはよくわかっていますけれども、ぜひ頑張っていただいて、バレー界に明るいニュースを提供していただけるチーム作りに精を出していただけると嬉しいですね。

狩野以前、現役時代を引退して解説の仕事をお引き受けした時、ずっと雲の上の存在だったヨーコさんに、気さくにお話していただいて感動したことがあるんです。大学に行く選手が少ない時代に、大学に進学されて、なおかつ勉強に励まれて、しかもオリンピックにも出場されている。そういう方に激励していただけて、本当に嬉しかったんです。

ゼッターランド本当にそう願っているんですよ!

狩野でも同時に、私の中で一つ明確なのは、やはりやるのは選手なんだということです。もちろん一緒に頑張りますが、あくまでもやるのは選手です。試合までに全ての準備をしっかりやって、それでもし勝てなかったら私が責任を取ればいい。その割り切りは昔から結構あります。ただ、とにかく今のデフバレーボールは、分母が少ないんです。私は、絶滅危惧種と呼んでいるのですが、やはりデフバレーで一番力をいれなければいけないのは、新しい選手の発掘、育成です。続けていく努力を続けていかないと、続かない世界、ただ漫然とやっていれば次に続くわけではないんです。だから、中にいる人間もそれを感じて、選手たちにもそこの部分をもう少し自覚してほしいですね。次の4年はもちろん結果を残すこと、そしてその次へと繋げてゆくことだと自覚してます。

ゼッターランド本当に頑張ってね、今日はありがとうございました。

狩野こちらこそありがとうございました。

<了>

写真=近藤 篤 Photograph by Atsushi Kondo

インタビュアー

ヨーコ・ゼッターランド

YOKO ZETTERLUND

1969年3月24日、アメリカ・サンフランシスコ生まれ。6歳から日本で育ち、中学、高校時代は全国大会や世界ジュニア選手権で活躍、早稲田大学に進学し、チームを関東大学リーグ6部から2部優勝にまで導いた。その後、単身渡米し、アメリカナショナルチームのトライアウトに合格。アメリカ代表として、1992年バルセロナ大会、1996年アトランタ大会、2大会連続で五輪に出場し、バルセロナ五輪では銅メダルを獲得した。1997年、ダイエーオレンジアタッカーズ(現久光製薬スプリングス)とプロ契約を結び、1999年6月の引退まで、数々のタイトルを獲得した。2009年から大学院にて「アスリートのメディアトレーニング」についての研究を進め、2011年、鹿屋体育大学体育学研究科体育学専攻(修士課程)を修了。2013年には嘉悦大学女子バレーボール部監督に就任、4年間にわたりチームの指揮を執った。

現在は、スポーツキャスターとして各種メディアへ出演するほか、後進の指導、バレー教室、講演、エッセー執筆など幅広く活動するとともに、日本スポーツ協会常務理事をはじめ、バレーボール以外の分野へも活躍の場を広げている。当財団スポーツチャレンジ賞選考委員。



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