スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

今村大成
FOCUS
TAISEI IMAMURA
今村大成の足跡

デュッセルドルフの父と呼ばれて

「だったら卓球部作ろうぜ。」

そんな環境の中、今村は卓球を始める。岩尾滝中学校の1年生の時だった。当時中学校にはバレーボール部しかなかったが、ある日クラスメートが学校に申請し、一人だけの剣道部を作った。

「え、そんなことできるの?だったら俺らは卓球部作ろうぜ、ということになったんです。ピンポンの方がバレーボールよりは楽しめそうでしたし、少人数でもできましたから」

数ヶ月後、誕生したばかりの岩尾滝中学校卓球部は、小矢部市内の大会に初めて参加した。チームユニフォームはなく、全員が学校の白い体操着で揃えて大会に出場した。するといきなり一回戦の相手チーム監督に、君たちそれはルール違反だよ、と教えられた。

「相手チームから紺色のシャツを貸してもらって、無事試合はやらせてもらいました。もちろん負けましたけど」

目指すはインターハイ出場と国立大学合格

3年後、彼は県立福野高校(現在は富山県立南砺福野高校)へ進学する。創立明治27年という古い歴史を持つ伝統校で、卓球では県内強豪校の一つだった。学校までは自宅からバスを2本乗り継いで片道1時間。卓球はインターハイ出場、勉強は国立大学合格、それが今村の目標だった。

「卓球部の練習は、球拾いとうさぎ跳びで始まりました。多すぎる部員をふるい落とすために、嫌がらせみたいな練習が半年くらい続きました」

20人ほどいた新入部員は一人また一人、強くてセンスのある選手からやめていったが、今村はやめなかった。意味のない練習にも、阿呆らしい練習にも、黙々とついていった。半年が過ぎると、少しずつボールを打たせてもらえるようになり、あとは3年間、夏も冬も、暑くても寒くても、ひたすら卓球に明け暮れた。

富山県大会個人ベスト8、今村の卓球人生は3年生の夏前に一度終了する。厳しい部活とおさらばし、今度は卓球から受験勉強へとエネルギーを切り替えた。しかし、高校時代の3年間で卓球に費やした練習量と学力は、見事に反比例のカーブを描いていた。

「合格率50%の大学を4つ受ければ2つは受かるんだろうと思っていたら、片っ端から不合格です」

受験に失敗した今村は金沢市で下宿しながら浪人生活を過ごし、翌春、日本大学法学部の1年生として学生生活をスタートした。
学校での授業はそれなりにこなし、あとの時間は生活費を稼ぐためにひたすらアルバイトに精を出した。卓球が嫌いになったわけではなかったが、グリップを握った時の感触やラバーが白い小さなボールをはじきかえす感覚を思い出すことは、不思議となかった。

<次のページへ続く>



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