スポーツチャレンジ賞

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YMFS SPORTS CHALLENGE AWARD SPECIAL CONTENTS

藤原進一郎
FOCUS
SHINICHIRO FUJIWARA
藤原進一郎の足跡

すべての人にスポーツを

障がい者スポーツをごく当たり前のものに

センターは開館直後から、予想以上の利用者で賑わった。メディアを通じてこの施設の存在を知った人、ただなんとなく来てみた人、意外と高齢の利用者も多かった。

藤原がこだわったのは、センターの「個人利用重視」ということだった。当時、まだこの国の公共スポーツ施設の多くは、団体の利用を念頭に置いた貸館的な管理と運営が中心だった。

スポーツの生活化、藤原はまずそのことを考えた。障害のある人々にとって、スポーツが日常生活の中でごく当たり前になされるようになるためには、個人で利用でき、しかも煩雑な手続きなしに気軽に利用できる施設の存在は不可欠だ。(もちろん当時の日本に、そんな施設は一つもない)。

同時に、藤原はこの施設が「障がい者専用の施設なんだから、障がい者はあそこでスポーツをすればいいじゃないか」という新たな差別や偏見が生まれないよう心がけ、障がい者と同伴であれば健常者である友人や家族の利用も黙認した。

そして、来館者のことを「お客さん」と呼んだ。

「当時はまだ、障がい者にとってのスポーツとは、リハビリや治療として認識される程度のものでした。彼らはあくまでも「患者さん」や「訓練生」。でも、街中にあるスポーツ施設では、みなさん誰でも「お客さん」でしょう。だからここでは、みなさん「お客さん」なんですよ」

そのお客さんたちが、明日も来よう、明後日も来ようと思ってくれるような施設、藤原はそんな場所作りを目指していた。

参考文献もマニュアルもない時代だった

今現在、日本パラリンピック委員会(JPC)事務局長を務める中森邦男は、この長居のスポーツ施設の立ち上げ当時、アルバイトの学生として藤原の元で働いた一人である。彼は当時大学三年生で、水泳部に所属していた。

「その年の夏休み、縁あってプールの監視や水泳の指導を手伝うことになりました。藤原先生がいつもおっしゃっていたのは、仲間づくり、ということでしたね。スポーツを始めるきっかけになるのはセンターのスポーツ教室、そしてそこである程度うまくなったら、あとは教室を卒業して同好会とかクラブとかを皆で結成する。そしてそれぞれのクラブの中で、競技力を高めてゆく。こういう仕組みを作ったのも藤原先生です」

当時、障がい者スポーツの全国大会は、秋に一度あるだけで、しかも一度出場すると次はもう出られない、というものだった。これではさすがに何を目標にして頑張ればいいのかわからない。

「そういう流れの中で、藤原先生は全国のスポーツ団体の組織化、も心に留めておられました。例えば、私自身が関わってきた水泳もそうです。まず近畿大会を三年開催し、それを全国的な規模へと広げてゆく。そしてそこに参加してくる人々やクラブや団体とともに、次は日本身体障がい者水泳連盟を立ち上げたんですね。そういうことも、藤原先生はリードしてくれました」

一方で、藤原は現場のことにはあまり口出しせず、それぞれのインストラクターが自分の特性、専門性を伸ばしなさい、というスタンスを取っていた。例えば施設全体としては、夏に盆踊りをやったり冬にクリスマス会をやる。そういう時は力を合わせよう。でも普段はそれぞれが自分の特徴を伸ばせばいいのだ、と。

「当時先生はまだ41歳でしょ?41歳でそういう発想ができたこと自体、すごいなあと思います。障がいのある人たちにとっては、こういう施設や組織を運営してゆくための参考文献もなければ、マニュアルも何もない時代ですからね」

<次のページへ続く>



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