昭和49年5月2日、大阪市東住吉区長居公園に一つの公共施設が誕生した。施設の名は「大阪市身体障がい者スポーツセンター」、大阪市主導で作られた日本初障がい者のためのスポーツ施設だった。
現場の責任者として施設の指導課長に就任したのは、当時大阪市立大池中学校で体育の教師を務めていた藤原進一郎という人物だった。
「私は41歳になったばかりでした。教師の仕事が嫌になったとか、そういうことは全くなかったんです。ただ、40歳を過ぎると、学校の中ではやれ教頭の職がどうだとかこうだとか、そういう話も出てきます。ところが私は、そういう類の話はあまり興味を持っていなかった…」
新しい世界で新しい何かを始めてみる。藤原の背中をもうひと押ししたのは、彼を熱心に誘った初代館長のこんな言葉だった。
福祉のことは私自身が長年役所でやってきた。医療面のことは、専門のドクターに引き受けてもらう。だからこの二つのことは何も心配しなくていい。君にはスポーツのことを頼みたい。真っ白な白壁に、君の好きなように絵を描いてくれ。
藤原はその役目を引き受けることにした。
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今春、ヤマハ発動機スポーツ振興財団スポーツチャレンジ賞功労賞を史上最年長で受賞した藤原進一郎は、1932年8月、岡山県邑久郡(現、岡山市)で生まれた。父は薬剤師、小さな薬屋をその町で経営していた。
特に語るべきこともない少年時代でしたよ、と藤原は笑う。
「勉強?しませんでしたねえ。元教師である私がこんなことを言うのもなんですが、勉強が好きだなんて、そういう子はなかなかいないんじゃないですかね」
1942年12月、太平洋戦争が開戦。藤原は戦争の最中、岡山県邑久郡幸島(尋常)小学校に通うこととなった。白米の中に大麦が混ざるようになり、その大麦が小麦と変わってゆく。身の回りからは少しずつ、これまで見慣れていたものが姿を消してゆき、空腹の時間は少しずつ長くなっていった。
とはいえ、都市部に比べれば邑久での生活が困窮を極めていたわけでもない。艦載機の空襲や夜間の灯火管制はあったものの、小学生の生活はある意味で長閑なものだった。風邪をひいて体調を崩せば、母がどこかから手に入れてくれたカステラを食べさせてもらえたし、中学生の頃は、誰かが買ったコッペパンを、三時間目の授業が終わる頃にみんなで争って食べ合う、そんなことを楽しんでいた。
「さすがにスポーツらしいスポーツはできませんでした。野球なんか、そもそもボール自体をほとんど見かけませんでしたからね。靴もなかったですが、私の母は手先が器用で、靴まで縫ってくれていました。その靴をなんだか自慢げに履いておった記憶があります」
藤原は脚の速い少年で、学業の成績はともかく、体育の授業や催しではいつも活躍していた。5年生の時に参加した邑久郡(現 瀬戸内市)の運動会で走った競走の事は今でもよく覚えている。
スタートして、最初に砂場を駆け抜けると、次は立棒をよじ登り、高い足場の上を怖々と歩く、そして最後のゴールは藁人形に竹槍をヤーっと突き刺した。
戦争が終わった1945年、藤原は隣町にある岡山県立西大寺中学に通っていた。旧制中学一年の夏、日本は焦土の中から復興への道を歩み始め、岡山県の片隅にも、少しずつ平和が戻ってきた。藤原は高校生になると仲間たちとともにようやく整備された町営グラウンドで陸上競技の練習に励んだ。
6年後、藤原は西大寺高等学校を卒業すると、すでに大阪で生活していた旧友のツテを頼り、当時日本橋一丁目にあった鼻緒屋に就職を決める。病気がちだった母のことを思うと、早く独り立ちしたかった。
「…なんて言ってしまうと、なんだか格好良すぎますね。本当のことを言えば、若い自分はとにかく大阪へ出て行って働きたかっただけかもしれません」
ところが、大阪へ立つ直前になって、藤原の計画は母親の知るところとなる。病気がちな母は、入院中の病院のベッドの上で息子の就職話を嘆き、涙した。私の病気のせいで…。
藤原は大阪行きを一旦諦め、岡山大学への進学を決める。別に体育の教師を目指していたわけではない。入りやすい学部、とにかく彼としては早く社会へと飛び出したかった。
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2年後、中学校保健体育科二級普通免許状、高等学校仮免許状、この二つの資格を携え、藤原は再び大阪へと旅立ってゆく。さすがに今回は、母親も何も言わず見送ってくれた。
「ところが、そのまま大阪で教師としてすぐに働けるんだと思っていたら、教員採用試験というのを受けなきゃいけないと聞いて、ちょっとびっくりしましたね」
新米体育教師として、二十歳の藤原が五歳年下の生徒たちの前に初めて立ったのは、大阪駅の北東、長柄橋の少し手前にある大阪市立豊崎中学校だった。
土地柄、やんちゃな子供の多いところだ。天王寺駅の構内で鳩の巣を取りに昇って騒ぎを起こしたり、他校の生徒たちと喧嘩をしたり、とかく毎日の話題には事欠かなかった。
「自慢にもなりませんが、隣の中学校の生徒たちがこちらまで押しかけてきて、彼らが退散するところを逆に追いかけて行ったら、いつの間にか一人きりになって周りを囲まれていた、なんてこともありました。でも、楽しくて、面白い学校でしたよ。他校との喧嘩はだいたい勝っていましたし、笑」
豊崎中学で7年教鞭をとったのち、藤原は大阪市立平野中学校へ赴任する。
この中学校は1966年に保健体育優秀校として日本学校体育研究会および文部省から表彰を受け、「体操学校」と呼ばれるほど体育の分野で実績を残してきた学校だった。市内の学校体育で中心的な存在の教師も在籍し、経験と研究に裏付けられた彼らの教えは、発展途上だった若い藤原には何よりもありがたかった。そして自身は陸上部の顧問として何人もの選手を育て上げ、大阪府内で総合優勝を果たした年もあった。
「平野中学の後、教員生活の最後の5年を過ごした大池中学時代も含めて、私はいつも立派な先輩教員のご指導を受け、仲間や後輩にも恵まれておりましたね」
昭和49年5月2日、大阪市身体障がい者スポーツセンターのオープンと共に、藤原進一郎の新しい人生はスタートする。
身障者のスポーツと直接的な関わりを持つようになったのは、平野中学転勤からおよそ8年後の、昭和43年あたりのことだった。
その年、陸上競技協会の理事をしていた関係で、藤原は長居競技場の中にできていたトレーニングセンターのインストラクターを依頼される。
「長居競技場の場長は役所の人だったのですが、ある日彼から、大阪市が主宰する障がい者の競技会のルール集を整理してくれないか、と頼まれました。ざっと目を通してみると、さほど難しいものではありません。誰にでもわかるように整理して、審判をしてくれる市役所の陸上部に提出しました」
すると翌年、藤原はいつのまにかルールの専門家ということになり、今度は競技会の審判長をやってくれないかと、頼まれる。そこからは、練習会の手伝い、全国大会へのチームへの同行、藤原と障がい者スポーツの関わりはしだいに深くなってゆく。
全国大会のある代表者会議で、ルールブックの中に散見された幾つかの曖昧な表記を質問すると、後日、じゃあ君がこれを整理してくれたまえ、と日本身体障がい者スポーツ協会の常務理事から、今度は全国規模でのルールの整備を命じられた。
「そんなわけで、気がつくとすっかりこの世界に入り込んでいる感じですね。誰かがそれを引き受けなければならなかった。誰でもよかったわけではないでしょうが、たまたまそれが私だったのじゃないでしょうか。頼むと言われれば、引き受ける。まあ、教師というものが、そもそもそういう仕事ですよね」
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センターは開館直後から、予想以上の利用者で賑わった。メディアを通じてこの施設の存在を知った人、ただなんとなく来てみた人、意外と高齢の利用者も多かった。
藤原がこだわったのは、センターの「個人利用重視」ということだった。当時、まだこの国の公共スポーツ施設の多くは、団体の利用を念頭に置いた貸館的な管理と運営が中心だった。
スポーツの生活化、藤原はまずそのことを考えた。障害のある人々にとって、スポーツが日常生活の中でごく当たり前になされるようになるためには、個人で利用でき、しかも煩雑な手続きなしに気軽に利用できる施設の存在は不可欠だ。(もちろん当時の日本に、そんな施設は一つもない)。
同時に、藤原はこの施設が「障がい者専用の施設なんだから、障がい者はあそこでスポーツをすればいいじゃないか」という新たな差別や偏見が生まれないよう心がけ、障がい者と同伴であれば健常者である友人や家族の利用も黙認した。
そして、来館者のことを「お客さん」と呼んだ。
「当時はまだ、障がい者にとってのスポーツとは、リハビリや治療として認識される程度のものでした。彼らはあくまでも「患者さん」や「訓練生」。でも、街中にあるスポーツ施設では、みなさん誰でも「お客さん」でしょう。だからここでは、みなさん「お客さん」なんですよ」
そのお客さんたちが、明日も来よう、明後日も来ようと思ってくれるような施設、藤原はそんな場所作りを目指していた。
今現在、日本パラリンピック委員会(JPC)事務局長を務める中森邦男は、この長居のスポーツ施設の立ち上げ当時、アルバイトの学生として藤原の元で働いた一人である。彼は当時大学三年生で、水泳部に所属していた。
「その年の夏休み、縁あってプールの監視や水泳の指導を手伝うことになりました。藤原先生がいつもおっしゃっていたのは、仲間づくり、ということでしたね。スポーツを始めるきっかけになるのはセンターのスポーツ教室、そしてそこである程度うまくなったら、あとは教室を卒業して同好会とかクラブとかを皆で結成する。そしてそれぞれのクラブの中で、競技力を高めてゆく。こういう仕組みを作ったのも藤原先生です」
当時、障がい者スポーツの全国大会は、秋に一度あるだけで、しかも一度出場すると次はもう出られない、というものだった。これではさすがに何を目標にして頑張ればいいのかわからない。
「そういう流れの中で、藤原先生は全国のスポーツ団体の組織化、も心に留めておられました。例えば、私自身が関わってきた水泳もそうです。まず近畿大会を三年開催し、それを全国的な規模へと広げてゆく。そしてそこに参加してくる人々やクラブや団体とともに、次は日本身体障がい者水泳連盟を立ち上げたんですね。そういうことも、藤原先生はリードしてくれました」
一方で、藤原は現場のことにはあまり口出しせず、それぞれのインストラクターが自分の特性、専門性を伸ばしなさい、というスタンスを取っていた。例えば施設全体としては、夏に盆踊りをやったり冬にクリスマス会をやる。そういう時は力を合わせよう。でも普段はそれぞれが自分の特徴を伸ばせばいいのだ、と。
「当時先生はまだ41歳でしょ?41歳でそういう発想ができたこと自体、すごいなあと思います。障がいのある人たちにとっては、こういう施設や組織を運営してゆくための参考文献もなければ、マニュアルも何もない時代ですからね」
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指導課長としては16年、さらに定年後の13年。藤原はこの日本初の障がい者専用スポーツ施設の発展を見守り続けてきた。
そして施設での活動とは別に、80年のオランダ、アーネムで開催されたパラリンピックで日本選手団コーチを務めたのち、翌81年には日本身体障がい者スポーツ協会技術委員会委員長に着任する。以後、ニューヨークでのパラリンピックを皮切りに、ソウル、バルセロナ、アトランタ、長野、そしてシドニーと、監督、総監督、あるいは団長を務め、国際大会におけるコーチ編成も彼が中心となって改善していった。
中森の言葉を借りれば、藤原進一郎という人物はすべての場面において日本の障がい者のスポーツをリードし、すべての基盤を整備してきた人、となる。
「やり遂げた感覚ですか?まあ、こんなもんかという感じでしょうかね。人間80歳を越えてしまえば、多少の妥協も必要でしょうし。たとえばこのあいだの授賞式、あれだけの人に集まってお祝いをしていただいている中で、あれもやり残した、これもやり残したとは、さすがに言えないですよ、笑。ただ、スポーツの指導法については、体育教師の経験のある私自身が、もう少しかかわって教えてあげていたら良かったな、と思うことはありますね」
教師時代、藤原は体育の授業を通じて、一生涯スポーツに親しめる素地を生徒一人一人に作ってあげたいと願っていた。生涯にわたって、動き続ける、やり続ける、そういう人が増えればいいなあ、と。
「そのためには、やっぱり仲間なんでしょう。仲間がいるってことは、続けることにとって必ずプラスになりますから」
「スポーツセンター創設当初、当施設の考え方は、それまで患者さん、あるいは訓練生としてスポーツに取り組んでいた障がい者の方々には、とても新しく、斬新な考え方であったと思います。お客さん、あるいは一利用者として、スポーツを自らやる。そこには自主性が必要ですし、同時に自己責任も生まれます。
訓練は、やらされるもの、受身的なものかもしれませんが、スポーツセンターというのは自分の意思で行くものです。いつ行ってもいいわけですし、やるもやらないも自分の勝手、これは訓練とは全く異なるものです。やるとやらされているのは、全く違いますよね。
私は藤原先生と同じ職場で仕事をご一緒させていただいたことはありませんが、先生の姿をそばで拝見していて、いつも強く感じさせられることがあります。
パラリンピックに代表されるような、勝った負けたのスポーツももちろん大事です。しかしそれと同じくらい、これからスポーツをはじめたいな、という障がい者の方々へのアプローチもとても重要なものです。障害を持ち、それでもセンターに勇気を持ってやってくる方がいらっしゃいます。果たして自分はできるのかな、と。そこをうまく導いていければ、その人の人生はきっと変わっていく。そんなことを、私は先生から学ばせていただいたように思います」
(現大阪市長居障がい者スポーツセンター館長 三上真二)
<了>
写真・文
ATSUSHI KONDO
1963年1月31日愛媛県今治市生まれ。上智大学外国語学部スペイン語科卒業。大学卒業後南米に渡りサッカーを中心としたスポーツ写真を撮り始める。現在、Numberなど主にスポーツ誌で活躍。写真だけでなく、独特の視点と軽妙な文体によるエッセイ、コラムにも定評がある。スポーツだけでなく芸術・文化全般に造詣が深い。著書に、フォトブック『ボールピープル』(文藝春秋)、フォトブック『木曜日のボール』、写真集『ボールの周辺』、新書『サッカーという名の神様』(いずれもNHK出版)がある。